田中綾「『この世にたやすい仕事はない』――〈労働者になる〉ための文学的レッスン」(抄出)

佐藤貴史・仲松優子・村中亮夫編著『はじめての人文学』(知泉書館、2018年)所収の「第1章 『この世にたやすい仕事はない』――〈労働者になる〉ための文学的レッスン」の抄出です。

津村記久子『この世にたやすい仕事はない』(日本経済新聞出版社、2015年→新潮文庫、2018年)。

 

  

 

〈兼業作家〉を経た、専業作家・津村記久子

 

(1)他者とかかわり、労働する自分に自信を持つ

 

津村記久子は、1978年、大阪府生まれの作家である。2009年に『ポトスライムの舟』で第140回芥川龍之介賞を受賞し、織田作之助賞や川端康成文学賞ほか数多くの受賞歴があるが、小説家デビュー後も約10年間会社員を続けた〈兼業作家〉でもあった。

 

『ポトスライムの舟』の作中主体である「ナガセ(長瀬由紀子)」は、29歳の女性である。大学卒業後に正職員として勤めていたが、上司からハラスメントを受け、退職を余儀なくされる。職場や労働自体への恐怖から、長い脱力の日々を過ごしていたが、現在は、人間関係が良好な化粧品工場で、パート労働から契約社員に昇格したばかりである。とはいえ収入はパート時代に準ずる程度で、学生時代の友人が経営するカフェでアルバイトもし、休日にはパソコン講師やデータ入力も請け負っている。年収は、163万円。余裕のない経済状況ながら、母と暮らす古い自宅の改修のためにこつこつと貯金をしているのだった。

 

そんなある日、世界一周のクルージングのポスターを見て、ナガセの意識が変わる。「163万円」――自分の年収が、世界一周旅行の金額だったのだ。このナガセの現状はまさに「プレカリアート」であり、長時間働いても十分な収入を得られないワーキングプアの女性という位置づけとも重なる。「現代女性文学の最先端は今やワーキングプア問題であり、作家たちは自身の労働体験を踏まえつつ、格差や雇用不安が生み出す問題を凝視している」(北田 2009、16)という見解もあり、津村作品を多く論じている矢澤美佐紀も、『ポトスライムの舟』の世界観を、「ロストジェネレーションのしたたかな抵抗」(矢澤 2016、36―47)ととらえたうえで、ナガセが日常「百均」のコップを用い、クローゼットには「ユニクロ」の特価で買ったTシャツがあることに着目している。「かつての『貧困』を扱った角田光代の〈フリーター文学〉における衣食住のイメージは『無印良品』や『コンビニ商品』だったが、ここでは完全に『ダイソー』になっている。純文学の世界も価格破壊である」(矢澤 2016、31)。

 

確かに、全国展開する百円ショップはコンビニエンスストアとともにもはや日常の風景の一つである。けれども、ワーキングプアであるから百円ショップの利用が多い、という図式的な判断は、むしろ津村作品の読みを狭めてしまうようにも思われる。

 

ナガセは、自分の年収を世界一周旅行に〈換金〉することもできる、という事実を発見したその日から、世界を周る夢とともに、節約を重ねる。けれども貯金通帳の金額は、カフェ店主の友人や、子連れで家出をしてきた友人、就活せずに結婚を選んだ専業主婦の友人、同じ工場で懸命に働く女性ら、周囲の人間との交際のため、徐々に目減りしてゆく。他方、ナガセの労働への恐怖や脱力は、彼女たちとのかかわりの中でゆるやかに回復してゆき、精神的にも経済的にも相互扶助のような関係で満たされ、あたたかなラストシーンに至るのである。

 

タイトルの「ポトスライム」は、安価で手のかからない観葉植物の一種であり、切った若い茎をコップの水に差しておくと、どんどん繁殖していく。値段は安いながらも生命力に満ちたポトスライム。ナガセが、友人たちやその子ども、職場へとポトスライムを手渡してゆくさまは、ゆるやかな信頼関係の象徴であろう。

 

短編「十二月の窓辺」(『ポトスライムの舟』所収)では、上司から理不尽なハラスメントを受け、心にダメージを受けた女性職員の姿が描かれており、それは津村自身の体験でもあったようだ。編集者・深澤真紀との対談で、当時を回想し「ワンフロアの職場に響き渡るような声でめっちゃくちゃ怒られて、はぁ……ってなってコピー取りなんかで席を離れたら、年下の先輩に『がんばれっ♡』みたいな軽い感じで肩叩かれて。(略)そういう人らから話を聞くと、もう『自分が悪い』としか思えなくなって追い込まれる」(津村・深澤 2017、23―24)とも語っており、感情に左右されがちな上司の敵意をかわすよりも、「自分が悪い」のではないか、という「自己責任」論に浸食されていた内面が、はからずも吐露されていたのだった。

 

そのうえで『ポトスライムの舟』を再読すると、雇用不安やワーキングプアが前面に出された小説ではなく、他者とのかかわりの中で働く自分に自信を持ち、「自己責任」論から解き放たれる過程が描かれた作品であったことがうかがえる。

 

(2)「自己責任」論からの解放――労働者同士の連帯の可能性

 

その津村記久子の新刊『この世にたやすい仕事はない』は、これまで以上に着地のしっかりした作品である。作中主体の「私」は、36歳の女性。前の職場を「燃え尽き症候群のような状態」(津村 2015、11)で辞し、実家で静養したのち、職業紹介所で期限付きの仕事を紹介してもらっている。前節でも触れたが、正職員を辞し、癒えがたいトラウマを抱えながら次の仕事を探すという設定は、津村作品の通奏低音でもある。

 

「私」は、相談員の初老の女性から非正規雇用の仕事をあっせんしてもらうのだが、小説とはいえ、まことに奇妙な仕事ばかりなのが読みどころでもある。

 

全5話のうち、「第1話」は、密輸品の〈何か〉を預かっていると思われる作家の、自宅を監視する仕事。「第2話」は、地方の循環バスで流すアナウンス原稿を作成する仕事。「第3話」は、創業40年の米菓製造業者で、「おかき」のパッケージの文案を作成する仕事で、これは上司からも評価され、少し自信を見出すことになる。けれどもおっくうな人間関係から逃れるかのように、あえて「私」は契約更新をしないのだった。それに続く「第4話」は、店や民家を訪ねて、ポスターの貼り換えをするという外回りの仕事である。楽な作業であったが、そのポスターがねずみ講まがいの会のものであり、仕事自体が突然なくなってしまった。

 

最終話にあたる「第5話」は、それまでの奇妙な仕事と人間関係を通して、以前のダメージから回復してきた様子が描かれている。広大な森林公園の、奥のさらに奥の小さな小屋で、展示会の入場券にミシン目を入れたり、迷子案内をしたり、迷子を増やさないように地図を作成するなどの仕事である。人気のない小屋であるが、ちょっとした変化が続き、「私」は不審に思う。そんななか、数カ月行方不明で捜索願が出されている男性が、大森林の中で発見された。医療ソーシャルワーカーとして働いていたその男性は、「私」と同年齢であり、仕事や人間関係とのバランスが崩れ、そこに逃避してしまったという。

 

その男性との遭遇ののち、「私」の心にゆるやかに変化が訪れる。じつは「私」も、かつては病院や施設の医療ソーシャルワーカーとして働いていたのだった。働き甲斐もあり、苦痛ばかりだけでなく喜びも得られていたのだが、感情労働でもあり、「燃え尽き症候群のような状態」となり、精神的・身体的な休息が必要だったのである。「私」はふと、「自分が大学卒業以来十数年続けた、最初の職種に戻る時が来たような感じ」(津村 2015、337)になり、これまでの五つの非正規労働で得られたあたたかな人間関係や、少しずつ、かつ着実に増えていったスキルを思い起こし、働く人間としての自信を取り戻す。そして、医療ソーシャルワーカーとして新たな思いで就職することをにおわせ、結末となる。

 

この小説は、2017年にはNHK・BSプレミアムで8回の連続ドラマとして放映されたが、そのキャッチコピー「自分の仕事が、もっと愛せるようになる“お仕事ファンタジードラマ”」は、津村作品の本質を言い当てているように思われる(最終閲覧日=2017年9月11日)。「自分の仕事」を「愛せるように」なり、労働者である自分自身をもっと「愛せるようになる」ために、正規/非正規を問わずさまざまな他者と邂逅し、幾層もの人間関係を織りなしながら、小さくとも自信を持って働き続けるということである。

 

『この世にたやすい仕事はない』、このタイトルには率直に肯うほかはないけれども、他者との「分断」を容赦なく迫る「自己責任」論から一歩踏み出し、労働者同士が語り合い、認め合うことで解き放ってくれるような力が、津村作品からは見出せる。労働者同士の連帯と言うとおおげさだが、そのような可能性と、そこから社会の構造を少しでも変えてゆけるような希望が感じられるのである。

 

 

【参考文献】

北田幸恵 2009「ロスジェネ雨宮処凛と津村記久子に見る『プレカリアート』と『ジェンダー』」、『社会文学』(日本社会文学会)第30号。

津村記久子 2011『ポトスライムの舟』、講談社(講談社文庫)。

津村記久子 2015『この世にたやすい仕事はない』、日本経済新聞出版社。

津村記久子・深澤真紀 2017『ダメをみがく “女子”の呪いを解く方法』集英社(集英社文庫)。

矢澤美佐紀 2016『女性文学の現在――貧困・労働・格差――』、菁柿堂。

 

 

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