中澤秀一「韓国の最低賃金事情」

全商連付属・中小商工業研究所が発行する『中小商工業研究』第153号(2022年10月・秋号)に掲載された中澤秀一さん(静岡県立大学短期大学部)による論文の転載です。どうぞお読みください。

 

 

はじめに

 

韓国の文在寅前政権は所得主導成長論を唱え、任期内に最低時給1万ウォンを達成することを公約に掲げていた。実際に文政権開始後、最低賃金の上昇率は16.4%(2018年)、10. 9%(2019年)と、2年連続で大幅な引き上げを行った。しかし、その後はコロナ禍による景気悪化の影響もあり、2.9%(2020年)、1.5%(2021年)と低い引き上げにとどまった。[1]2022年は5.1%とやや回復させたものの、文政権は5年間の任期中に最低時給1万ウォンを達成することはできなかった(図1参照)。とはいえ、現在の最低賃金=9160ウォン(938円)は、週休手当を含めると、月191万4,440ウォンになり(週40時間、月209時間基準)、週休手当を受給できる週15時間以上雇用者は、既に時給1万ウォンを超えており、限定的ながら公約は達成されたともいえるだろう。[2]

 

図1 韓国の最低賃金と引き上げ率の推移

出典:筆者作成。

 

文政権の最低賃金政策の評価はこれから下されるだろうが、韓国の最低賃金の水準は大幅に上昇したという事実には変わりはない。そして、政権が変わってもこの上昇基調に変化はなく、2023年は9620ウォン(985円)に引き上げられる予定である。これに対して日本では政府の「できるだけ早期に全国平均1,000円」の目標すらなかなか達成できず、先ごろ中央最低賃金審議会が示した目安額は、過去最大の引き上げ額31円(3.3%増)で、10月からの新しい最低賃金額は全国平均961円となる。日本の最低賃金は韓国と比較すると、引き上げのスピードは緩慢で、ついに来年には韓国に追い抜かされることになった(図2参照)。本稿では、この最低賃金の急速な引き上げを可能にした中小企業支援策について紹介し、日本の最低賃金政策への示唆を考えてみたい。

 

図2 日本の最低賃金と引き上げ率の推移

出典:筆者作成。

 

1.韓国の最低賃金決定の仕組み

 

韓国における最低賃金の決まる仕組みは、従来は最低賃金委員会の審議を経て決定されてきたが、最低賃金の大幅引上げにより社会的関心の高まりと労使間の意見相違が深刻化していたことから2019 年に改編され、「区間設定委員会」と「決定委員会」の二段階方式となった。まず、「区間設定委員会」が最低賃金引き上げ率の上下限を設定し、「決定委員会」が範囲内で議論し、最低賃金を決定する。両委員会の構成は、「区間設定委員会」が専門家委員9名(政労使の推薦に基づき選定)、「決定委員会」が労・使・公益委員各7名、合計 21名で構成され、公益委員の推薦は、多様性確保のため従来の政府単独推薦権を廃止し推薦権を国会にも付与している。また最低賃金の決定基準として、従来からの労働者の生活保障(労働者の生計費、所得分配率、賃金水準、社会保障給付現況等)に雇用・経済状況(労働生産性、雇用に及ぼす影響、経済成長率含む経済状況)も追加されている。

韓国の最低賃金運動は、労働組合だけではなく、他の社会勢力も提携して、社会全体の課題として取り組まれている点に特徴がある。2002年に結成された「最低賃金連帯」には、ナショナルセンター(労働組合の全国中央組織。日本の連合や全労連にあたる)やアルバイト労組や女性労組、青年ユニオンなどの労働組合のほか、市民団体、シンクタンク、政党などの多様な31団体が参加している。さらに、最低賃金委員会の労働代表はナショナルセンターからの推薦で選出されるが、2015年からは韓国非正規労働センターや青年ユニオンのメンバーが選出されている。つまり、当事者の意見をきちんと反映できる仕組みになっているのだ。

 

2.韓国の中小零細企業支援策

 

最低賃金の引き上げは、いまや世界各国の主要な政治的なテーマとなっている。日本でも2019年の参院選において、主要政党が初めて公約に最低賃金を掲げるようになった。ただし、最低賃金引き上げは個別企業だけに課せられた課題ではない。むしろ、最低賃金をスムーズに引き上げられるように、政治がどうやってその環境を整えるかが問われているのである。最賃未満の賃金しか支払う体力のない中小零細企業に対して、どれだけ実効性のある支援を行えるかが最低賃金政策の肝である。今後の日本の最低賃金政策を展望するために、韓国で実施された中小企業支援策を紹介する。

 

①雇用安定資金事業

最低賃金の大幅な引き上げにより零細企業が賃金支払い不能になることを防止するために、韓国政府は2018年の最低賃金引き上げ率16.4%から、直近5年間の平均引き上げ率の7.4%を引いた9.0%相当の賃金(総額2兆9,707億ウォン)を支援することを決め、創設されたのが「雇用安定資金事業」である。同事業は、もともと2018年1月から同年 12月までの時限措置であったが、以降も継続されている。同事業の対象となったのは、原則30人未満の事業所で働く事業主であった。当初の給付内容は、事業主に週所定労働時間40時間以上の労働者一人あたりに13万ウォン(当時の為替レートで1万1,830円)が毎月支給されるものであった。短時間労働者は、一人あたり12万ウォン(20時間~40時間未満)、9万ウォン(10時間~20時間未満)、6万ウォン(10時間未満)と、週所定労働時間に比例させて支給された。

最低賃金の引き上げ率が1.5%であった2021年度は、支援を受ける労働者は雇用が1カ月以上維持されており、月平均報酬額(基本給、すべての手当の総額)が219万ウォン以下である必要があるという要件に変更され、給付内容は、5人以上の事業所では一人あたり月5万ウォン、5人未満の事業所では一人あたり月7万ウォンで、短時間労働者の支給額は労働時間に比例している。

このように、韓国では中小(零細)企業の事業主に対して直接支援を行い、最低賃金を上げやすい環境を整えたのである。日本でも業務改善助成金や法人税の税額控除率を引き上げる賃上げ税制などの制度があるが、「(膨大な書類を提出しなければならず)使い勝手が悪い」「(ほとんど法人税を納めていない中小零細企業にとっては)実効性に乏しい」等の理由で活用されていないのが現状である。

 

②社会保険料の減免

労働者が加入する社会保険における保険料の事業主負担分は、特に中小企業にとって重い負担となる。これを軽減することも最低賃金を引き上げやすい環境につながる。韓国では、新たに年金保険・雇用保険に加入した場合には、保険料と雇用保険料については、5人未満の事業主に対しては保険料の90%が、5人以上10人未満の事業主に対しては同じく80%が減額される仕組みが導入された(すでに加入していた事業主の減額率は40%)。同様に、健康保険についても新規加入の場合に、5人未満の事業主に対しては保険料の60%が、5人以上10人未満の事業主に対しては同じく50%が減額される。

日本でも中小企業経営者を対象としたさまざまな調査で、最低賃金の引き上げに対応した支援策として「社会保険料の軽減」がたびたび上位に挙げられている。しかしながら、具体的な軽減策は実施されていない。厚生年金保険料の事業主負担を回避するための「加入逃れ」が深刻な問題となっており、持続な可能な社会保障を確立し、労働者の生活保障を実現するためにも、社会保険料の減免は取り組むべき課題だろう。

 

③クレジット手数料の軽減

韓国ではカード決済が一般的であり、クレジット会社が取る手数料が中小企業の経営を圧迫することが多い。クレジットカード加盟店に対して、事業主側が負担する手数料の軽減を国庫負担で実施した。例えば、売り上げが10億ウォン以上30億ウォン以下であれば、2.21%から1.6%に手数料を引き下げている。

 

3.最低賃金引き上げの影響

 

ネットを中心に韓国での急速な最低賃金引き上げが韓国経済を不景気に追い込み、失業者を増大させたという言説をよく見聞きする。果たして事実なのだろうか。

 

図3 日韓の実質国内総生産成長率の推移(%)

出典:  IMF(2021.10)World Economic Outlook Database, October 2021、日本:内閣府(2021.12)「2020年国民経済計算」。

 

図3は日韓の実質国内総生産成長率の推移を、図4は日韓の失業率の推移を、それぞれ示したものである。韓国の経済成長率は最低賃金を大きく引き上げた2018~2019年に確かに鈍化しているが、それは日本も同様であり、これを最低賃金引き上げだけに原因を求めるのは難しい。また、韓国の失業率はもともと日本よりも高い水準にあるが、2018~2019年に特別に跳ね上がったわけではなく、大きな変化はみられない。

労働生産性については、韓国では2018~2019年に上昇している。低下傾向がみられる日本とは対照的である。このほか、社会保険に加入する労働者数の増加など、プラスの影響もみられるのである。

 

図4 日韓の失業率の推移(%)

出典:日本:総務省統計局(2022.2)「労働力調査(長期時系列)」、韓国:ILOSTAT (https://ilostat.ilo.org/data/) 2022年2月現在。
注:各年8月の数値。

 

図5 日韓の労働生産性水準の推移

                           1995=100

出典:OECD Database (https://stats.oecd.org/index.aspx?DataSetCode=PDB_LV#) 2022年2月現在。

注:2015年の購買力平価で米ドル換算した就業者一人当たりGDPを元に算出。

 

 

おわりに―最低賃金引き上げは地域経済を元気にする

 

これまで最低賃金が引き上げられることで得をする当事者になりうるのは、パートやアルバイトなどの雇用形態として働く非正規労働者のみと考えられてきた。しかし、いまや正規労働者でも最低賃金近傍で働く層は少なくない。最賃引き上げは正規にとっても関係があるテーマである。さらに地方自治体、中小企業も最低賃金が引き上げられることで得をする当事者になるのだ。2021年11月に静岡県労働研究所では、最低賃金を1,500円に引き上げた場合に、どれくらいの経済波及効果が生まれるのか、静岡県が公表している産業連関表(経済波及効果ソフト)を用いて試算を行っている。この試算によると、静岡県内の生産誘発額は3,200億円、付加価値誘発額は1,900億円、雇用誘発人数は25,000人、それぞれ増加し、さらに国と地方の税収も370億円増加するとの試算結果が出ている。ここから言えることは、最低賃金を引き上げることは、地域経済の活性化につながるということである。

かつて、静岡県内の中小企業経営者にヒアリングを行い、最低賃金を1,500円に引き上げることについて意見を伺ったことがある。もちろん、反対する経営者もいたが、それはむしろ少数派で、地域経済を活性化させるためには、どちらかというと最低賃金を上げたほうがよいという意見が多数派であった。実際、今年2月に日本商工会議所などが実施した「最低賃金引上げの影響および中小企業の賃上げに関する調査」によると、今年の最低賃金額の改定について、「引下げるべき」もしくは「引上げはせずに、現状の金額を維持すべき」と回答した企業の割合の合計は39.9%と、前年調査から16.7ポイント減少した。一方で、「引上げるべき」(「1%(9円程度)以内の引上げとすべき」、「1%(9円程度)超~3%(28円程度)以内の引上げとすべき」、「3%(28円程度)超の引上げとすべき」の合計)と回答した企業の割合は、前年調査から13.6ポイント上昇して41.7%となり、 「引下げるべき」と「引上げはせずに、現状の金額を維持すべき」の合計(39.9%)を上回っている。徐々に中小企業経営者の考え方も変化している。具体的な中小企業支援策が示されれば、最低賃金引き上げはさらに加速し、時給1,500円が現実味を帯びてくるのではないだろうか。カギを握っているのは中小企業経営者である。

 

 

[1] 引き上げ率が鈍化したのは、コロナ禍のほかに、2019年の最低賃金法改正で最低賃金の算入範囲が拡大されたことにも要因がある。具体的には、定期賞与金と現金性の福利厚生費が最低賃金に含まれるものの、その算入比率が段階的に上げられ、2024年までに全額含まれるよう変更され、分子の最低賃金に算入可能な賃金の範囲が大幅に拡大されることになった。

[2] 韓国の勤労基準法第55条では、使用者に対し、労働者に1週間に平均1回以上の有給休日を保障するよう義務づけている。週15時間以上働く労働者は、週休日に働かなくとも1日分の週休手当を受給できる。例えば、1日8時間・週5日勤務の場合、週40時間に週休時間8時間を加えた48時間分の賃金を受け取ることができるのである。しかし、週15時間未満であれば、使用者には週休手当を支給する義務は発生しない。

 

 

(参考文献)

中島康浩「最賃引き上げと中小企業支援策─主要国の実践例から学ぶ」『月刊全労連』270号(2019)

日本貿易振興機構ソウル事務所ビジネス展開・人材支援部 ビジネス展開支援課「韓国における最低賃金に関する最新情報」(2020)

独立行政法人労働政策研究・研修機構「2022年最低賃金引き上げ率は5.1%」 (2021)

静岡県労働研究所・静岡県評パート臨時労組連絡会 静岡県最低賃金引き上げの経済波及効果試算プロジェクト「静岡県最低賃金引き上げの経済波及効果試算」(2021)

厚生労働省「2021年 海外情勢報告」(2021)

 

 

 

Print Friendly, PDF & Email
>北海道労働情報NAVI

北海道労働情報NAVI

労働情報発信・交流を進めるプラットフォームづくりを始めました。

CTR IMG