中澤秀一「2021年最賃改定と今後の最賃運動の展望」

最低賃金はいくらが妥当か──その根拠となる最低生計費調査を、地元の労働者・労働組合関係者と全国各地で展開している中澤秀一さん(静岡県立大学短期大学部准教授)から、最低賃金問題を考える際の必読論文が届きました。どうぞお読みください。

 

 

 

はじめに-アップデートされない社会の認識

2010年に静岡県で実施された調査の監修者として関わって以来、筆者は全国各地でのマーケット・バスケット方式による最低生計費の試算調査に携わっています。とくに、2015年から始まった一連の最低生計費試算の取り組みの総数は、2021年までに25都道府県に到達しています。筆者が監修担当ではない諸調査や現在進行中の調査を含めると、すでに30以上の都道府県が何らかの形で取り組んでいることになります。

調査に初めて取り組んだ頃を思い返すと、最低賃金をめぐる情勢は大きく変化しました。最も大きな変化は、最賃が政治の争点になったことです。2019年参院選では、日本維新の会を除く主要政党すべてが選挙公約に最賃の改善を掲げています。もちろん、その背景には政党ごとの思惑があり、決して許容できない公約もあるのですが、政治的に最賃が着目されていることは紛れもない事実であり、おそらくこの流れは以降の国政選挙でも続くことが予想されます。

しかしながら、2020年という新型コロナに全世界が翻弄された年に、本来であれば「コロナだからこそ」引き上げなければならなかった最賃は、“凍結”されてしまいました。中央最賃審議会は引き上げ額を示さなかったのです。その後、40の地方最賃審議会の反発により、わずか1円であるが加重平均額は引き上げられましたが、20年改定はほぼ“凍結”であったと言ってよいでしょう(7の地方最賃審議会が唯々諾々と中央の決めたことに従ってしまった点に、現在の審議会のあり方に問題があるのですが、このことは別の機会に触れましょう)。

では、なぜ中央最賃審議会が下した結論は、最賃“凍結”だったのでしょうか。社会的な関心は持たれるようになったものの、「(主婦や学生など扶養されている労働者の賃金だから)多少低くても構わない」「大都市の物価は高く、地域別に定めるのべき」「大幅に引き上げたら企業が倒産し、失業者が急増する」等々の言説が専門家を含めてまことしやかに語られ、最低賃金をめぐる情勢は大きく変化しても、最賃に対する社会の認識がいまだにアップデート(更新)されないからです。

「どんな立場であろうと、同じ仕事をしているのであれば同じ賃金が支払われるべき」であるし、「8時間働いたら、普通に暮らせるべき」です。また、「どこで暮らしても生活費はそれほど変わらない」ことは、多くの人々が体感として知っているはずです。

さらに、最賃運動がめざすものは経済を危機に追い込むことではありません。エキタスなどの最賃引き上げのデモのシュプレヒコールをよく聞いてみてください。求めているのは、「最低賃金を1500円に上げろ!」だけではなく、「最賃を引き上げるために中小企業への支援」も必ず要求のなかにあるのです。デモ参加者が求めているのは、個別企業への賃上げではありません。要求の相手は政府であり、中小企業支援策を求めているのです。そして、運動がめざしているのは、格差・貧困問題の解決やボトムアップによる経済の回復なのです。

このような運動がめざす最賃の改革を実現させるためには、なんといっても社会の賛同が不可欠なのです。そのためには、最賃に対する社会の認識をアップデート(更新)しなければなりません。では、どうすれば古い認識をアップデートできるのでしょうか。それは、エビデンス(根拠)を積み重ねていき、社会に共感を広げていくしかありません。

本稿は、そのエビデンスを提供し続けてきた最低生計費調査の現時点での到達と教訓を整理するとともに、今後の運動を展望したいと思います。

まずは、引き上げ“凍結”であった20年改定について振り返ってみましょう。

 

1.最低賃金20年改定とは何だったのか―中小企業3団体による要望

コロナ禍において「雇用を守る」べきか、それとも「賃金を上げる」べきか。最低賃金の20年改定をめぐる議論は、あたかもこの二律背反の議論にすり替えられてしまいました。二律背反とは、二つの相反する命題や推論が、同じだけの合理性・妥当性をもっていることであり、この場合に「雇用を守る」と「賃金を上げる」とが矛盾して両立しないことを意味します。果たして、このどちらかを選ぶしかなかったのでしょうか。国家には、労働者の生活の糧となる「雇用を守り」かつ、労働者やその家族の健康で文化的な生活を担保するだけの「賃金を保障する」こと、これら二つの条件を両立させる責任があることは、資本制社会が誕生した時から変わることはありません。けれども、議論がすり替えられてしまった背景には、日本商工会議所等の中小企業3団体が昨年4月に提出した要望書の影響が大きかったと考えられます。

2020年4月16日、日本商工会議所、全国商工会連合会、全国中小企業団体中央会は、3団体連名で「最低賃金に関する要望~引き上げ凍結も視野に、明確な根拠のもとで納得感ある水準の決定を~」を取りまとめました。全国に緊急事態宣言が発出されて10日足らずの出来事でした。同要望が主張するのは、次の3点です(下線はいずれも筆者による)。

 

①昨年6月に新たに設定された「『より早期に』全国加重平均が1,000円になることを目指す」という政府方針は「緩やかな景気回復」を前提としていることから、現下の危機的な経済情勢や賃上げの実態を反映した新たな政府方針を設定すること。

 

②わが国経済が未曽有の危機に直面している中、リーマンショック時の2009年度の引き上げ率は1.42%、東日本大震災時の2011年度は0.96%であったことを踏まえ、今年度の審議では、中小企業・小規模事業者の経営実態を十分に考慮するとともに、現下の危機的な経済情勢を反映し、引き上げの凍結も視野に、明確な根拠に基づく、納得感のある水準を決定すること。

 

③余力がある企業は賃上げに前向きに取り組むべきことは言うまでもないが、政府は賃金水準の引き上げに際して、強制力のある最低賃金の引き上げを政策的に用いるべきではなく生産性向上や取引適正化への支援等により中小企業・小規模事業者が自発的に賃上げできる環境を整備すること。

 

あたかも最賃を引き上げることがマイナスであることを印象づけた内容ですが、正しい言い分だと言えるのでしょうか。

①の政府方針に関しては、この数年の経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)では、内需を喚起させるためには国民の所得を向上させなければならず、そのために最低賃金を引き上げる必要性を強調し続けています。骨太の方針2019では、基本認識として「我が国が直面する様々な課題を克服し、持続的かつ包摂的な経済成長の実現と財政健全化の達成を両立させていくことが、我が国経済が目指すべき最重要目標」と強調し、重視する取り組み課題の1つとして「成長と分配の好循環の拡大」を挙げています。これは、内需の持続的な拡大と外需の継続的な取り込みを意味していて、前者に関しては「企業収益を拡大しつつ、賃金・雇用者所得の増加を通じて、消費の継続的な拡大を図る」とあります。さらに、「内需の喚起に資する所得の向上を図り、成長と分配の好循環を継続・拡大させるため、経済成長率の引上げや生産性の底上げを図りつつ、就職氷河期世代の人々への支援を行うとともに最低賃金の上昇を実現する」とあるように、内需喚起策の重要な一手として最賃引き上げが位置付けられていたのです。[i]

このスタンスは、骨太の方針2020でも変わっておらず、「経済の好循環継続の鍵となる賃上げに向け、日本経済全体の生産性の底上げや、取引関係の適正化など、賃上げしやすい環境整備に不断に取り組みつつ、最低賃金については、より早期に全国加重平均1000円になることを目指すとの方針を堅持する」とありました。ただし、先述したように「雇用を守る」を優先し、引き上げは事実上“凍結”されてしまったのですが…なお、骨太の方針2021では、「最低賃金の引き上げで早期に全国平均1000円を目指す」と明確な目標に戻っています。

②の明確な根拠に基づく、納得感(経営者側にとっての?)ある水準に関しては、法を蔑ろにした主張です。最低賃金法9条2項には「地域における労働者の生計費及び賃金並びに通常の事業の賃金支払能力を考慮して定められなければならない」とあり、最賃額を決定する要素として3つを挙げています。2007年の同法改正で同条に「労働者の生計費を考慮するに当たつては、労働者が健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう、生活保護に係る施策との整合性に配慮するものとする」が加わったことは、決定3要素のうち労働者の生計費が最も重視されていると考えるのが、ごく自然な法解釈とされています。それにもかかわらず、2020年の中央最低賃金審議会の議論は、例年より強く企業の支払い能力論が前面に打ち出されてしまいました。それは目安小委員会報告書における使用者側見解「今年度は、3要素のうち、『通常の事業の賃金支払能力』を最も重視して審議すべき」の文言に象徴されています。[ii]

ところで、実際の審議会において労働者の生計費の根拠とされているのが、標準生計費です。ところが、この標準生計費は算出の内容がブラックボックスに包まれており、年により地域により大きく数値がブレてしまうような信頼性に乏しい生計費なのです。[iii]

その点、本稿で紹介している最低生計費は、主な調査対象者が労働組合員という制約があるものの、地域ごとの実態に即しながら、普通の暮らしのために必要な費目を一つひとつ丁寧に積み上げた科学的試算の成果です。もちろん、国や自治体がしかるべき調査を行い、きちんとした生計費試算を行ったほうが良いのでしょう。しかしながら、そのような調査が行われていない以上、最低賃金の水準について納得感のある生計費は、いまのところ最低生計費しかないのです。

③の政府は賃金の引き上げに際して、強制力のある最低賃金の引き上げを政策的に用いるべきではないという主張に関しては、日本において賃金規制策として、所得分配策として、最重要かつ、唯一の制度として機能しているのが最低賃金制度であって、中小企業3団体の最低賃金についての認識が誤っているのです。なお、後段の中小企業・小規模事業者の生産性向上や取引適正化への支援等については必要な施策であり、大いに賛同できます。

こうして最賃の2020年改定は、早い段階における資本側の効果的な“一手”で趨勢が決まってしまいました。20年6月に開催された全世代型社会保障検討会議で安倍首相(当時)は、「今は官民を挙げて雇用を守ることが最優先課題」と述べ、加藤厚生労働大臣(当時)に新型コロナウイルス感染症の影響を受ける中小企業に配慮するよう(=最賃は引き上げないこと)指示しました。

ただし、労働側が手をこまねいていたわけではなく、6月の全世代型社会保障検討会議に労働側代表として出席した連合の神津会長は「生活や雇用への不安がある中、最低賃金の改定は、セーフティネット促進のメッセージになる」との意見を述べました。

また、全労連は7月に厚生労働省で「エッセンシャルワーカーに報いて」のテーマで記者会見を行い、黒澤事務局長は、医療・介護・小売・運輸などの新型コロナウイルスの感染リスクを抱えながらも国民の生活を支えているエッセンシャルワーカーには最賃近傍で働く人も少なくないとして、こうした働き手に報いるためにも、「全国一律1500円」を目指した最賃引き上げが重要だと主張しました。この会見には最賃に近い水準で働くエッセンシャルワーカー当事者も参加していて、切実な声を届けています。[iv]

この会見には大きな反響があり、エッセンシャルワーカーの実態を社会に知らしめた功は大きく、有効な反撃であったと言えるでしょう。しかし、いかんせん中小企業3団体による「最低賃金に関する要望」の影響力は大きく、“凍結”の流れを変えるところまで到達できませんでした。

 

2.21年改定はどうなるのか―変節した経済財政諮問会議の議論

それでは、今年の最低賃金21年改定はどうなるのでしょうか。そこで展開されている議論は、20年とはまったく異なる様相を呈しているのです。

2021年3月22日に開催された第3回経済財政諮問会議では、緊急事態宣言解除後のマクロ経済政策運営の課題、地方の活性化、大学改革について議論が繰り広げられました。同会議にて菅首相は次のように発言しています。「現在春闘は、業種によってばらつきがあるが、全体で1%台後半の賃上げとなっている。このモメンタムを中小企業や地方に広げ、非正規労働者の処遇改善といった構造的課題にも答えを出すため、最低賃金をより早期に全国平均1000円とすることを目指す。(中略)東京と地方の人の流れは、23年ぶりに7か月連続で転出超過となった。こうした動きを加速し、日本全体を活性化する。」最賃をより早期に全国加重平均で1000円に引き上げることと、東京一極集中の動きを是正することの2点がポイントでした。

このような発言は、同会議における民間議員の次のような発言を受けてのものです。

竹森俊平慶應義塾大学経済学部教授の発言の主旨:ITなどの成長産業に向かって動く人の流れが重要であり、そのためにそうした産業では賃上げを積極的に行うべき。

柳川範之東京大学大学院経済学研究科教授の発言の主旨:最低賃金が低い地域では、引き上げをすると雇用が増えるというエビデンスも存在する。コロナを契機に地方への人の流れが増えている。地域の雇用創造や産業振興が起きないと定着しないので、具体的な仕組み作りが必要。

新浪剛史サントリーホールディングス代表取締役社長の発言の主旨:デフレ脱却には、継続的な賃上げが不可欠である。そのために、中小企業への同一労働同一賃金の実施も契機に最賃の大幅引き上げをめざすべき。

同会議には、竹森氏ら4名の民間議員が連名で、東京から地方への人の流れを促す仕組みの一つとして、地方の最低賃金のボトムアップを提言しています。そのエビデンスとして最低賃金が低い地域での引き上げが雇用増に寄与したという研究が紹介されました。この研究は、内閣府経済社会総合研究所・務川特別研究員ら3名によるもので、近年の最賃引き上げが中小企業の雇用、付加価値額、労働生産性に与える影響について、地域別・業種別パネルデータを活用した分析を行っています。結論は、最低賃金水準が中高位の地域では最低賃金引き上げによる雇用の増減は確認されなかった一方で、最も低い区分(つまり、Dランク)の地域では雇用が有意に増加したというものでした。これまで最賃引き上げが雇用にプラスに作用するエビデンスを政府側が積極的に提示することはあまりありませんでしたが、このようなエビデンスを示した背景には、20年のような中小企業団体による最賃引き上げのキャンペーンを牽制し、21年は大幅に引き上げのための先手を取りたい首相側の思惑がみてとれます。[v]

 

3.最賃引き上げの主導権―労使どちらが握るのか

このように最近の政府の動きを見ると、今後も最賃の引き上げ路線は継続すると予測されます。争点は、どれくらいの引き上げ幅になるかということになりそうです。

ただ、同じ最賃引き上げでも、その主導権を労働者側が握るのか、それとも財界側が握るかでその後の状況は大きく異なってしまうので要注意です。菅政権が進めようとしている最賃引き上げには、菅首相のブレーンで成長戦略会議のメンバーでもあるD・アトキンソン氏の主張が色濃く反映していると言われています。アトキンソン氏が主張するのは、生産性を向上させることが今後の政府が掲げるべき目標であり、そのためには最低賃金の引き上げが有効であるということなのです。生産性を高めることに異論はありませんが、アトキンソン氏は、最賃引き上げによって低い生産性の元凶と考えている中小企業を淘汰してしまおうと目論んでいるのです。実際、菅首相も官房長官時代に中小企業の統合・再編を促進すると表明していました。

政府の方針が、財界主導の最賃引き上げであることは、国の予算に注目すれば明らかです。政府は最賃の引き上げにどれほどの財源を費やしているのか。20年12月の閣議で決定された21年度の厚生労働省予算案では、コロナ禍から国民のいのち・雇用・生活を守り、「新たな日常」を支える社会保障を構築するための重点事項のひとつとして、「雇用就業機会の確保」を掲げています。このなかには、「最低賃金・賃金引き上げに向けた生産性向上等の推進、同一労働同一賃金など雇用形態に関わらない公正な待遇の確保」のための予算が計上されており、ここに中小企業・小規模事業者への助成金による支援が含まれている。そしてなんと、ここに計上された当初予算は463億円でした(その後、608億円に補正)。

労働運動総合研究所では、最賃引き上げのための支援を考える材料として、中小企業の社会保険料負担額を試算しています。これによると、30人未満の中小企業が負担している社会保険料はトータルで約4兆6700億円です(労災保険料を除く)。[vi]

また、最低賃金を1500円にまで引き上げる原資は17兆円とも試算しています。[vii]

最賃引き上げの環境を整えるためには、少なくともこれくらいの財政規模が必要なのです。ところが、現在の政府の支援の規模とは雲泥の差があり、まったくお話にならないのです。

冒頭でも述べたように、労働側がめざしているのは中小企業への支援策とセットでの「全国一律1500円」の最低賃金の実現です。政府が最賃引上げを企業(とりわけ、中小企業)の努力に求めているのだとしたら、大幅な引き上げは望めないでしょう。それどころか引き上げに耐えられない中小企業の廃業が相次ぐことも危惧されます。最賃引き上げと中小企業支援策とがセットが実施されていることは世界の常識なのです。労働側はこのことを世論にきちんと主張しなければならないでしょう。

 

4.最低生計費調査が明らかにした最賃の問題点

佛教大学金澤誠一名誉教授の監修によりスタートした最低生計費調査が、いま全国に拡がっていることは冒頭で述べたとおりです。表1は筆者がこれまでに監修を担当した諸調査のサンプル数および回収率をまとめたものです。全国で約34000の人々に調査に協力していただいております。

 

表1:2015~2021年に実施された最低生計費調査のサンプル数および回収率

調査地域 サンプル数 回収率 実施年
新潟県調査 715(74) 24% 2015年
静岡県調査 1670(195) 42% 2015年
愛知県調査 999(217) 25% 2015年
北海道調査 1217(201) 30% 2016年
東北地方調査 1840(270) 31% 2016年
埼玉県調査 597(41) 20% 2016年
福岡県調査 3000(267) 20% 2017年
山口県調査 2029(167) 20% 2018年
京都府調査 4745(412) 11% 2018年
鹿児島県調査 1621(158) 32% 2018年
長崎県調査 1478(141 30% 2019年
佐賀県調査 805(111) 31% 2019年
東京都調査 3487(411 27% 2019年
岡山県調査 3675(265) 18% 2020年
長野県調査 3686(748 36% 2020年
沖縄県調査 962(84) 24% 2020年
茨城県調査 1355(190 17% 2020年
大分県調査 1483(109 33% 2021年

(注1)括弧内は若年単身世帯数。
(注2)大分県調査については、分析にあたったのは大分大学経済学部石井まこと教授および福祉健康科学部三好禎之准教授。

 

最低生計費の試算は、マーケット・バスケット方式で行い、普通の暮らしに必要なものを一つひとつ積み上げていくので、生計費の内容が具体的で分かりやすいという特徴があります。

一連の最低生計費調査の結果が明らかにした最低賃金制度の問題点は、次の2点になります。

一つめの最賃制度の問題点は、1日8時間週40時間フルタイムで働いたとしても、普通に暮らすことができないほど低額に抑えられていることです。表2は、これまでに22都道府県で実施された調査結果をまとめたものです。25歳の若者が質素ながらも普通のひとり暮らしをするための費用が示されていますが、税・社会保険料込みで月額約22~26万円(年額約270~310万円)必要であるという結果が出ています。2017年までの最低生計費の月額は22~24万円ほどでしたが、最新の大分県の結果では月額約26万円にまで到達しています。生計費はずっと一定というわけではなく、物価や社会保険料の上昇によりじわじわと押し上げられます。さらに、2019年10月からの消費増税や、コロナ禍によるステイホーム需要の増大も生計費を押し上げる要因となりました。2018年以降の結果をみると、おそらく現時点における全国各地の最低生計費は月額約24~26万円になっていることが予想されます。表2の下から2段目は、この月額を月150労働時間(人間的な月当たり労働時間)で除した数字、すなわち、普通の生活をするために必要な賃金の時給額です。最下段の2020年10月からの最賃額と比較すれば、いかに最賃が低すぎるのかが分かるでしょう。労働側が求める時給1500円の根拠(エビデンス)のひとつがここにあるのです。

 

表2 最低生計費試算調査若年単身世帯総括表

(注1)25歳単身・賃貸ワンルームマンション・アパート(25㎡)に居住という条件で試算。
(注2)その他には理美容品費、理美容サービス費、身の回り用品費、交際費、自由裁量費(1ヶ月6,000円)を含む。
(注3)非消費支出=所得税+住民税+社会保険料。

 

二つめの問題点は、47都道府県をA~Dランクに分けて、ランク間に根拠のない格差がつけられていることです。大都市の都府県(Aランク)は金額が高く、反対に地方(C、Dランク)では低く設定されています。しかも、Aランクは毎年の引き上げ額を高く設定し、反対にC、Dランクでは引き上げ額を抑制しているので、A~Dランク間の格差はこの10数年ほどで2倍強に拡大しているのです。20年7月現在の最高額1013円(東京都)と最低額792円(沖縄県など7県)とでは221円もの格差があります。いっぽうで最低生計費のほうは、これほどの格差はありません。図1は、男性の最低生計費(税等込み)の時給換算額(月150時間労働)したものを示したものである。全国各地で最低生計費に大きな格差がないことが確認できます。同様のことは、図2を見ても明らかです。最低生計費(税等抜き)が最も高い長野市=100としたときに、最も低い福岡市=88.3である。ほぼ100―90のなかに収まっているのに対して、最低賃金は100―78に格差が拡がっていることが確認できます。生計費に準じて最低賃金額が定められるならば、現行の最大221円もの格差は問題があると言わざるを得ないのです。

 

図1 全国どこでも変わらない最低生計費(男性、月150労働時間換算)

 

図2 最低生計費と最賃の格差の比較

(注)最低生計費については非消費支出(税・社会保険料)を除いた金額での比較。

 

ちなみに、経済財政諮問会議での東京一極集中の是正をめざそうとする議論については先述しましたが、菅首相がめざす全国加重平均額1000円とは、いまある地域間格差をそのまま是認する目標であり、東京一極集中の是正をめざしているとは到底思えません。

以上のように、最低生計費調査は最賃運動のめざしている「全国一律1500円」のエビデンスの一つとなっているのです。

 

5.最低生計費調査運動の現地点

最低生計費調査を実施したすべての都道府県で調査結果を公表し、その都度マスコミ等からの反響を得ています。そして、エビデンスをもって様々な場面での要求運動にも活用されており、そのような事例には枚挙にいとまはありません。その中からうまく活用された事例をいくつか紹介してみましょう。

 

(1)長野県調査について

長野県調査で特筆すべきは、ひとり暮らしの若者のデータを空前の748部も集められたことでしょう。調査結果だけに意味があるのではなく、むしろ調査に取り組むことを通じて、組織そのものにインパクトをもたらしたことの表れです。調査を通じて、生計費にもとづく運動の意義が拡がり、組織力の強化にもつながった好事例です。

また、長野県生坂村(いくさかむら)では、村議会議員のなり手がおらず、16年間無投票選挙が続いていました。生坂村議会では若者の議員のなり手を増やすために、議員報酬を月額30万円とする条例改正案が2020年12月に可決されているのですが、この30万円の根拠の一つとなったのが、最低生計費調査の結果でした。長野県で実施されたので採用されたのではなく、全国で実施されている調査だからこそ議会の信頼を得られたのです。

 

(2)沖縄県調査について

地方では自動車を所有させることにより高くなった交通費が生計費を押し上げるために、トータルでは住居費の高い都市部と変わらない生計費になるという、従来の調査で明らかになった事実が、改めて沖縄でも確認されたわけですが、沖縄ではより大きな反響がありました。

今回の調査結果を受けて、8月5日付『沖縄タイムス』では、「[最低生計費調査]最賃引き上げに生かせ」と題して、沖縄県調査の結果を紹介し、誰もが普通に働けば、普通の生活ができる最低賃金の保障が必要だと提言したのです。調査結果が拡散した画期的な出来事でした。

 

(3)茨城県調査について

茨城における調査については、茨城大学人文社会科学部の長田華子准教授(アジア経済論)のゼミ生10人に分析および結果公表に協力していただきました。学生の立場から調査を通じて感じたことを記者会見で述べています(写真1参照)。[viii]

4年生の戸澤琴音さんは、「私たちが学生の立場から調査をし、それに関して抱いた率直な感想を記者会見の場で伝えられてよかった。メディアを通して、特に私たちと同じ世代である若者にこの事実を知ってもらい、少しでも興味を持ってもらう事によって、最低賃金引き上げの第一歩になればよいと感じている」と感想を述べてくれました。多くの若者たちは、初任給を時給換算すれば最賃レベルであることに気が付いていません。同世代の若者たちに最低賃金を自分事として捉えてもらえる機会になったのではないでしょうか。

 

写真1 茨城大学ゼミ生の記者会見

 

(4)福岡県調査について

2021年6月16日、北九州市議会は全国一律最低賃金制度の段階的導入を要請する意見書を、賛成多数で採択しました(資料1参照)。ちなみに、政令指定都市で最賃の全国一律化を求める意見書が採択されるのは異例のことになります。21年3月に、連合と全労協の地域労組でつくる北九州共闘センターが中心となって、最賃の全国一律化を求める意見書を国に提出するように北九州市議会に陳情したことが意見書の採択につながったのですが、そもそもの発端となったのは2020年の「共闘」でした。北九州共闘センターと、全労連傘下の北九州地区労連とが、連携して最賃の大幅引き上げを市議会に陳情したのです。このように地域の労働組合が上部団体の違いを超えて連携したことは大きかったのですが、最終的に意見書採択の決め手となったのは、自民党市議が賛同したことでした。背景には、最賃をめぐる世論の変化があったと考えられます。意見書のなかで、「生計費については、都市部と地方との間で大きな差が無いことが団体の調査によって明らかになっています」と明言されているのです。福岡県で実施された最低生計費調査の結果が、マスコミ等で報道され、世論形成にも一役買ったということではないでしょうか。

 

資料1 2021年6月16日北九州市議会採択意見書

 

もちろん、うまくいくことばかりではなく、効果が見込んだほどあげられなかった事例もあります。しかしながら、取り組んだことに意味があり、失敗から学ぶ点もあるのです。今後、取り組もうとしている組織には熱意と勇気をもって臨んでいただきたいです。

 

6.最賃「全国一律1500円」が社会を変える

最賃運動を進めるうえで必要なのは、最低賃金が変わると社会も変えられるという確信です。まだまだ社会には「自分には関係のない賃金」と思われているがゆえに、運動は一部に限定されてしまっているのではないでしょうか。

日本が「すべり台社会」と言われるようになって久しいです。この言葉は、最低限の保障が機能していないことを意味します。第1のセーフティネットは雇用です。労働して生活が成立するということです。第2のセーフティネットが社会保険です。失業に備えて雇用保険があり、傷病に備えて医療保険があるように、働けなくなるようなさまざまなリスクに対応する諸制度です。その他に、今回のコロナ禍により利用者が急増した生活福祉資金や生活困窮者支援制度などがあります。そして最後のセーフティネットとして存在するのが生活保護制度です。本来は、このようにセーフティネットは重層的に張られ、すべての人に最低限の生活を保障しなければならないのですが、それぞれに“穴”があり、機能しているとは言い難く、一度のトラブルで底まで落ちてしまうような「すべり台社会」となってしまっているのです。いずれのセーフティネットも重要ですが、やはり雇用が最も包括的なセーフティネットだからこそ“穴”があってはならないのです。もし、最低賃金が誰でも普通に暮らせるほどの水準にあれば、すべり落ちていく人たちの数は確実に減らすことができ、この社会のありようは変わってくるはずです。最低生計費調査の結果は、労働者ひとりが質素ながらも普通の暮らしをするためには、全国どこでも年額270~310万円程度が必要であることを明らかにしたのは先に述べたとおりです。この「年額300万円」という具体的な数字がすべての人にとっての標準額となった時、「すべり台社会」からの脱却につながるでしょう。

また、最低賃金は家族形成にも影響を及ぼすことも忘れてはなりません。後藤道夫都留文科大学名誉教授は、男性賃金が90年代後半から低下する一方で、女性の低賃金は変わっていないために、子育てに必要な世帯所得を見込めない男女が増えたと指摘しています。[ix]

女性の低賃金を生み出してきた主な要因は最低賃金の低さにあります。最賃を大幅に改善することができれば、ステイタス化してしまった家族形成が、もっと当たり前の出来事に変わってくるはずです。[x]

 

おわりに

遠ざかってしまった普通の暮らしを取り戻し、日本社会を再生するための、きっかけとなる可能性をもつ最低賃金の「全国一律1500円」の実現。これを社会全体の共通認識にするために、労働運動にかけられた期待は大きいです。この歴史的な大転換ともいえる改革を実現させるための第一歩として、最低生計費調査の取り組みがすべての都道府県に拡がっていくことを期待して、本稿を締めくくります。

 

 

(注)本稿は、月刊全労連2021年6月号に掲載されている拙稿「最低生計費調査の到達と21年改定」を一部改変したものです。

 

(参考文献)

湯浅誠(2008)『反貧困―「すべり台社会からの脱出」』岩波書店

後藤道夫他19名(2018)『最低賃金1500円がつくる仕事と暮らし 「雇用破壊」の乗り越える』大月書店

労働運動総合研究所(2019)『労働総研クォータリー』No.112本の泉社

中澤秀一(2020a)「最低生計費調査が示す全国一律最低賃金の意義」『前衛』No.998日本共産党中央委員会

中澤秀一(2020b)「総論:問題提起、論点と全体のまとめ」『貧困研究』vol.24明石書店

務川慧他2名(2020)「最低賃金引上げの中小企業の従業員数・付加価値額・労働生産性 への影響に関する分析」『ESRI Research Note』No.54内閣府経済社会総合研究所

後藤道夫(2021)「世帯分布・生活維持構造の大変動と女性の異常な低賃金の持続―コロナ禍による生活困窮が露わにしたもの」『労働総研クォータリー』No.119本の泉社

 

(注釈)

[i] 「経済財政運営と改革の基本方針 2019~『令和』新時代:『Society 5.0』への挑戦~」(2019年6月21日)、p3~4。

[ii] https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_13009.html(2021年4月13日最終アクセス)

[iii] 中澤(2020a)、p74-75。

[iv] 2020年7月18日付『朝日新聞デジタル』

[v] ちなみに、同会議では最低賃金の全国一律化については触れられておらず、麻生副総理が最低賃金の格差是正について言及しているだけである。

[vi] 労働運動総合研究所(2019)、p56。

[vii] 労働運動総合研究所『2021春闘提言 今こそ内部留保を活用して日本経済の再生のチャンスを!―新型コロナ危機をチャンスに―』

[viii] 茨城大学ホームページ。https://www.ibaraki.ac.jp/news/2020/08/11010922.html(2021年4月13日最終アクセス)

[ix] 後藤(2021)、p13 。

[x] 最低生計費調査は子育て世帯でも試算を行っており、30代夫婦で未婚子2人の世帯の最低生計費は、500万円台後半から600万円に集中している。つまり、標準額300万円が保障されれば、夫婦の稼ぎで家族4人での普通の暮らしが成り立つ。もちろん、社会保障制度の充実だけなく、性別役割分業が見直され、性別に関係なく家事・育児を分担することも重要な要素になるが。

 

 

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