中澤秀一「最低賃金引き上げの経済効果について考える」

全商連付属・中小商工業研究所が発行する『中小商工業研究』第155号(2023年4月号)に掲載された中澤秀一さん(静岡県立大学短期大学部)による論文の転載です。どうぞお読みください。

 

 

 

はじめに

最低賃金を1,500円に引き上げると、経済にどのような影響をもたらすのか。従来の経済学の学説では、最低賃金引き上げは経済に悪影響を及ぼす、つまり、失業率や経済成長率などが悪化するというものであった。ところが、近年になって最低賃金引き上げは、むしろ経済にプラスに作用するという研究が注目を集めるようになってきている。その最も代表的な研究が、2021年にスウェーデン王立銀行経済学賞(通称:ノーベル経済学賞)を受賞した、最低賃金を引き上げた州と引き上げなかった州とで雇用の変化量を分析したデヴィッド・カードらによる研究である。カードらの研究の結論は、最低賃金引き上げは、雇用量の増加に結び付くということであった。また、「韓国の最低賃金事情」にて述べたように、韓国の最低賃金引き上げが必ずしもマイナスの影響をもたらしたのではなく、むしろプラスの影響があったという事実もある。

最低賃金引き上げが経済にとって負荷になるのではなく、むしろ梃子(テコ)になるという観点は、現在の日本経済の置かれた状況を考えたときに非常に重要である。本稿では、筆者が所長を務める静岡県労働研究所が、2021年に静岡県評パート臨時労組連絡会から委嘱されて取り組んだ「静岡県最低賃金引上げの経済波及効果試算」(以下、経済波及効果試算)の結果を中心に、最低賃金引き上げが経済にとって梃子になることのエビデンスをさらに強固にしてみたい。

 

1.試算方法の概要

最低賃金引き上げの経済波及効果を試算するために用いた主な統計資料は、「賃金構造基本統計調査(特別調査)」「毎月勤労統計調査地方調査年報」「毎月勤労統計調査特別調査」「就労条件総合調査」(以上、厚生労働省)、「就業構造基本調査」「会計年度任用職員の職員数の状況」「全国家計構造調査」(以上、総務省)、総合政策研究所『財政金融統計月報』(財務省)などである。なお、経済波及効果試算では2021年9月現在の静岡県の最低賃金額=885円を基準にしている。

これらの統計資料をもとに、(時給換算で)1500円未満で働く労働者数に、時給1500円との差額をかけて賃金増加額を算出する。次に、賃金増加額に年間実労働時間を乗じて年間の賃金増加額、つまり最低賃金を1500円に引き上げた場合の総賃金増加額を算出する。さらに、この総賃金増加額がどれだけ消費に回るのかの消費性向を乗じて、家計消費支出の増加額(需要増加額)を算出する。この需要増加額が、静岡県内における最終需要増加額となり、これに産業37部門の民間消費支出構成比を乗じてから、静岡県がホームページで公表している経済波及効果ソフト「静岡県産業連関表、平成27年産業連関表」(一般波及37部門)に入力すれば、生産誘発額、付加価値誘発額、雇用誘発人数等が自動的に計算されるのである。この分析ソフトは、静岡県が様々なイベントや公共事業等建設工事の実施に際して、新たに生じた需要増加額を入力することにより、誰もが経済波及効果を算定することができるようにと公表しているものである。ちなみに、今回の試算で用いた統計資料は誰でも入手可能であり、分析ソフトも静岡県と同様のソフトが各都道府県で公開されている。つまり、誰でもどこでも経済波及効果を試算することが可能である。したがって、今後は他の地域でも経済波及効果試算が行われることが望まれる[1]

 

2.最低賃金引き上げは雇用を増やし、税収を増やす

最低賃金1500円への引き上げにはどんな経済波及効果が見込めるのだろうか。それを示したのが表1である。対象労働者数や労働時間の算出方法の違いにより、3つの方式で試算を行なっている。統計資料からは対象労働者数を正確に捉えるのは困難であったので、試算はある程度の幅をもたせた。

 

表1 2021年静岡県最低賃金引上げ経済波及効果試算の結果概要

内容 試算結果 単位
A方式 B方式 C方式 平均
1500円未満の労働者数

855,657

779,938 817,797
最低賃金1500円に引き上げた時の総賃金増加額 5,126 4,415 4,670 4,737 億円
家計消費支出の増加額 3,842 3,310 3,500 3,551
静岡県内生産誘発額 3,513 3,026 3,200 3,246
静岡県内付加価値誘発額 2,086 1,797 1,900 1,928
静岡県内雇用誘発人数 27,250 23,472 24,825 25,182
全国生産誘発額 7,639 6,580 6,959 7,059 億円
企業の法定福利費増加分 723 623 638 661
国と地方の税収増 401 345 365 370

(注)A~C方式の試算方式の違いは以下のとおり。
A方式:公務を含む雇用者総数を対象に、一般・短時間の合計人数と平均労働時間で算出
B方式:公務を含む雇用者総数を対象に、一般と短時間の各々に人数と労働時間を区別して算出
C方式:民間の雇用者総数(農林漁業を除外)と会計年度任用職員を対象に、一般・短時間の合計人数と平均労働時間で算出

 

今回は静岡県内では時給1500円未満で働く労働者数は約78万~86万人であると試算された。県内の労働者の約二人に一人が該当する。最低賃金1500円がけっして一部の労働者に限った課題ではなく、労働者全体の課題であることがわかる。これらの時給1500円未満で働く労働者の賃金が上がることにより家計消費支出が増加し、県内生産誘発額は約3000~3500億円、県内付加価値誘発額は約1800~2100億円、県内雇用誘発人数は約24000~27000人、それぞれ増加することが見込まれる。また、労働者の賃金が増えることにより、納められる厚生年金や健康保険などの社会保険料や税金もまた増えることにつながる。今回は企業の法定福利費は623~723億円、国や地方自治体の税収は345~401億円、それぞれ増加する試算結果となった。最低賃金を引き上げるためには、中小企業への直接補助や社会保険料の減免など支援の財源が一時的には必要になるが、引き上げにより経済に好循環が生まれることを経済波及効果試算は示唆するのである。

なお、この試算では、時給1500円未満で働く労働者の賃金が時給1500円に引き上げられた分の経済波及効果しか分析していない。実際には、時給1500円以上で働く労働者も賃上げされる可能性が高いことから、さらに大きな経済波及効果があると予想される。ちなみに、労働総研では日本全体での経済波及効果について分析しており、それによると最低賃金を1500円に引き上げることによって、物価が2%以上上昇し、GDPが1.1%増え、税収が10兆円以上増加する。この物価上昇は、現在の物価高騰のようなコストプッシュ型ではなく、ディマンドプル型のインフレーションであり、需要を喚起し経済の好循環に結び付くものである。

また、経済効果が顕著に現れるのは商業、対個人サービスの分野であった。今回のコロナ禍で打撃を受けた業種に大きく影響するのである。コロナだから最低賃金を引き上げるのは、第一義的には「労働者の生活の安定」のためではあるが、「国民経済の健全な発展に寄与する」ことが改めて確認できる。

 

ここまでは静岡県労働研究所が行った経済波及効果試算の結果から、最低賃金引き上げが経済に対する梃子になることのエビデンスを示した。以下は、今回の試算では直接見えない経済効果について触れてみたい。

 

3.最低賃金引き上げは貧困を解消する

2022年10月に改定された最低賃金は、全国加重平均額で961円である。この金額では、健康で文化的な最低限度の生活=普通の暮らしが送れないことは、単純に月額や年額に換算すれば容易に想像ができる。961円×160時間=153,760円、153,760円×12か月=1,845,120円。この月額15万円、年収184万円とは、額面の金額であり、ここから税・社会保険料が引かれると手取り額はさらに減少する。現行の最低賃金ではワーキングプアになってしまうのである。なお、全国加重平均額961円を上回るのは7都府県であり、40の道県では下回っている。つまり、この40の道県で働く労働者は、さらにワーキングプアに陥る可能性が高いのである。

貧困に陥ることを防げない最低賃金が、1500円にまで引き上げられると、働いていれば貧困に陥る可能性が格段に低くなる。筆者が、2015年より全労連に加盟する地域組織の協力を得て全国27都道府県で実施している最低生計費試算調査によると、若者が普通の一人暮らしをするために必要な費用は、月額24~26万円ほどである(表2参照)。これを時給換算すると労働時間によって増減するが、人間らしい労働時間を考慮すれば時給1500円になる。時給が1500円になれば、1日8時間働くことにより貧困に陥らないのである。つまり、最低賃金が1500円になれば、生活保護などの貧困を救済するための費用は大きく削減できる。それだけでなく、貧困から抜け出して、働いて得た賃金から税金や社会保険料を納められるようになるのだから、社会に救われる側から社会の“支え手”に転じることにもなる。このように最低賃金1500円の貧困削減効果は、経済効果としてみるべきなのだ。

 

4.最低賃金引き上げは少子化問題を解消する

コロナ禍を経て、2022年の出生数は統計を取り始めて以来初めて80万人を割り込んだ。これを問題視した岸田政権は出生率を反転させるために、従来とは次元の異なる少子化対策を実現するとしている。具体策としては、①児童手当などの経済的支援の強化、②学童保育や病児保育、産後ケアなどの支援拡充、③働き方改革の推進等が挙げられている。しかしながら、どれも根本的な解決策になるとは考えにくい。なぜならば、少子化の原因そのものにコミットしていないからである。カップルが希望する子ども数を持たないのは、経済的な理由からであることは各種調査で明らかになっているが、真に少子化の原因となっているのは、「家族を形成する意欲の低下」である。現在の若年層の賃金水準では、目の前の自分の生活だけで精いっぱいで、将来の家族形成など非現実的なのである。結婚するカップル数が増えなければ出生数は増えない。少子化問題を真に解決するために必要な条件を考えた際に、最低賃金引き上げが大きなカギを握っているのである。少子化問題を解決するためには、最低賃金の水準を家族形成が現実的と思えるまでは引き上げる必要があり、その水準とはどれくらいなのだろうか。

先に述べた最低生計費試算調査では、子育て世帯についても最低生計費の試算を行っており、これがエビデンスとなる。表3は30代夫婦と子ども2人(幼児と小学生)からなる4人世帯の最低生計費の結果一覧となる。年額550~600万円(税・社会保険料込み)であった。これは最低賃金1500円で到達可能な水準である。つまり、最低賃金1500円×年間1800労働時間(かつて政府も目標に掲げていた人間的な労働時間)×2人分=年額540万円で、子育て世帯の最低生計費にほぼ相当するのである。

少子化問題は、特に地方において深刻な問題となっており、これまで地方創生をスローガンにさまざまな政策が施されてきたが、目立った効果を発揮することはなく、人口減少に歯止めをかけることはできなかった。最低賃金1500円への引き上げにより、地域経済が活性化し、次世代育成がまた行えるようになるのであれば、地方自治体にとっても、人手不足にあえぐ地域の中小企業にとっても、これ以上の経済効果はないのではないか。

 

おわりに

最低賃金引き上げが経済にとって負荷になるという“思い込み”は、まだ根強い。今回、紹介した経済波及効果試算により、その“思い込み”が払拭されれば幸いである。また、「賃金は労使の自治で決定するもの」という観念が、経営者だけでなく、一般的にも信じられている。確かに、賃金は労使の自由な契約で定められるべきであるが、ときに国家が強制的に介入しなければならない場合がある。

それは、賃金・雇用システムの誤り(バグ)により格差や貧困が行き過ぎてしまったときである。個人の能力や努力ではどうにもならない貧困や格差は、社会全体に閉塞感やストレスを作り出す。1日8時間働いても普通に暮らせないとしたら、それは人権侵害に他ならない。人権が保障されていない社会は、暮らしにくくストレスフルで、持続可能性がないのだ。そのような場合に、適正な分配がなされるように国家が介入すべきである。その役割が最低賃金制度にあることを強調しておきたい。

 

 

(参考文献)

愛知県労働組合総連合「愛知県最低賃金引き上げの地域経済効果試算」(2021)

福岡県労働組合総連合「福岡県経済波及効果分析ツール(42部門)を使った試算」(2021)

静岡県「産業連関表(経済波及効果ソフト)2015年」

https://toukei.pref.shizuoka.jp/bunsekihan/data/03033031.html

 

[1] 静岡県労働研究所で行った経済波及効果試算の詳細については以下を参照のこと。http://shizuokarouken.sakura.ne.jp/shohou/shohou4150.pdf

 

 

(参考)

中澤秀一さん(静岡県立大学短期大学部)の投稿記事

 

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