大屋定晴「現代の階級闘争とオルガナイザーの役割(2024年4月)」

大屋定晴「現代の階級闘争とオルガナイザーの役割」『学習の友』第848号(2024年4月号)pp.20-25

 

学習の友社が発行する『学習の友』第848号(2024年4月号)に掲載された大屋定晴さん(北海学園大学教員)による論文の転載です。どうぞお読みください。

 

 

1 はじめに

 

かつて「オルグ」という言葉が運動現場では普通に使われていました。辞書を引くと、「オルグ」とは、「オルガナイザー」の略(りゃく)とされ、「組合や政党の組織拡充などのため、本部から派遣されて、労働者・大衆のなかで宣伝・勧誘活動を行うこと、またその人」と書かれています。しかし「オルグ」ではなく、「オルガナイザー」という言葉が改めて注目されるということは、従来の「オルグ」の意味では捉えきれない、新たなオルガナイザーの役割が模索されはじめているのかもしれません。

そこで私は、まず「階級闘争」の意味を確認したうえで、パウロ・フレイレ(一九二一~九七年)の議論に依拠しながら、オルガナイザーの今日(こんにち)的役割を考えてみたいと思います。

なお一九五〇~九〇年代に民衆教育運動を主唱したフレイレは、日本では依然として知られる存在ではありません。ところが、ブラジル最大の社会運動とされる「土地なし農民運動」(MST)、あるいは世界社会フォーラムなど、ラテンアメリカ地域を中心とした社会運動では、彼の運動論は脈々と継承されています。また対話や生活現場やオルガナイザーの重視は、アメリカの「コミュニティ・オーガナイジング」論とも重なりあうとも言われます。

しかし、ここでは階級闘争におけるオルガナイザーの役割にしぼって、フレイレの議論を再考してみましょう。

 

2 階級とは何か

 

階級とは何でしょうか。一般には、ある社会が、上下の関係を保った社会集団に――世代を超えて――分裂している場合、この集団が階級と呼ばれます。しかし階級の特徴は、これだけではありません。階級は、生産と再生産に関わるものでもあります。

生産は、簡単に言えば生きるために物をつくることですが、この物を、生きるために使って(消費して)しまえば、生産は繰り返されないといけません。この繰り返される生産が再生産です。有限な時間しか生きられない個々人は、子を育て、成長させ、老いて、死んでいきます。こうした生きる営(いとな)みは、生産と再生産があって、はじめて世代を超えて続いていきます。

しかし生産は虚空(こくう)で行うことはできません。たとえば土地がなければ、農作物は作れません。この意味で土地は、生産のために欠かすことのできない手段です。ところが、この生産手段である土地が一部の集団によって独り占めされたとすれば、どうなるでしょうか。土地のない他の人は、その土地で農作物を生産できないと生きていけません。そうなると、土地を独占している人は、土地をもたない人に、土地の利用を認める見返りに、さまざまなことを命じてきます。ついには生産手段をもっている人は、自分は働かずに、生産手段(せいさんしゅだん)をもっていない人だけを働かせるかもしれません。こうして生産手段をもっている人たちと、そうでない人たちの間に上下関係が生まれ、それが世代を超えて固定する――これが階級関係です。

 

3 階級関係の資本主義的形態

 

もちろん今の日本は資本主義社会ですので、階級関係も資本主義的な姿をとっています。その特色の一つは、階級関係が、お金(かね)のつながりによって維持される、という点です。階級の上下を決める主な指標は、今や土地の独占ではなく、お金の独占です。生活用品も生産手段(建物、機械、原材料など事業に必要な物)も、すべてお金で買えます。したがってお金もちであることが、上層階級=資本家階級の第一の特徴です。

他方で、日々の生活用品を手に入れるには、お金がないといけません。お金のない人は、誰か――お金もち――からお金を手に入れるしかない。そのために彼・彼女らは、お金もちの意のままに労働する集団となります。これが賃金労働者階級です。しかも、お金でもって買われる賃金労働者階級は、資本家階級によって、人としてではなく、自由に消費したり捨てたりできる「物」のように取り扱われてしまいます。

いずれにせよ生産手段をもっているか否かが階級の違いのポイントであることには変わりがありませんが、それがお金を介するかたちになっている点が、現代の特徴です。

 

4 現代の生きる営みのなかでの階級闘争

 

しかしながら、生産手段を奪われて抑えつけられた人たちは逃げたり、さぼったり、抵抗したり、ついには闘ったりもします。マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』の言葉を引けば、「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史」なのであって、「抑圧者(よくあつしゃ)と被抑圧者(ひよくあつしゃ)とは、つねに対立して、ときには隠れた、ときには公然たる闘争を絶えまなく行(おこな)ってきた」のです。

現代でも階級闘争は、資本主義的なかたちではあるものの、続けられています。それは、まず端的に賃金労働者の労働運動として現れます。お金のためだからと言って、理不尽な生き方、働き方を強いられ続けるわけにはいきません。ですから労働運動は、今日(こんにち)の階級闘争の典型なのです。

ただし先ほど、生産と再生産があって、生きる営みがあると述べました。そうだとすれば、生産と再生産の現場から始まる階級闘争は、個々人の生きる営み全体に関わるさまざまな闘いと結びつく可能性があります。それは、たとえば消費のあり方(消費者運動)にも、人と人の交流のあり方(反差別運動)にも、未来の世代が生きる営み(保育・教育運動、さらには気候変動抗議運動や反原発運動)にも関連しうるのです。それゆえ階級闘争は、さらに広範な社会闘争を視野にいれる必要があります。

他方で、この生きる営みのさまざまな側面で起こる違いが、逆に階級闘争に入り込む場合もあります。賃金をもらう人たちは一枚岩ではありません。身体的・社会的性差(せいさ)や性的指向・性自認、あるいは信仰や言語や肌の色で違っています。こうした違いが利用されて、階級闘争が分断させられることもあります。この意味でも、現場にいる一人ひとりの多様な生(せい)の営みとその尊厳とを正面から見すえて、階級闘争は行われなければなりません。

 

5 階級闘争を「沈黙」させる反対話的行動

 

ところが階級闘争が抑え込まれる――こうしたことも歴史では何度も起きてきました。たとえば生産手段をもっている側が、政府などを動かして、暴力手段を公然と使って、直接的弾圧を行う場合です。

しかし他方で、暴力ぬきで闘争が抑え込まれることもあります。抑圧されている人が闘う希望を失ったり、抑圧状況を黙認したり自然視したり、あるいは支配する側に憧(あこが)れたり、その側と自分を同一視したりしてしまう場合です。各種の教育現場、マスメディアの情報発信、果てはインターネットと、階級社会は、この種の仕かけに満ちています。

この点を受けて、パウロ・フレイレは、その主著『被抑圧者の教育学』で次のように指摘します。

 

―― 抑圧者は被抑圧者に入り込み、被抑圧者に宿っている。

 

フレイレによれば、被抑圧者は、抑圧者の「反対話(はんたいわ)的な文化行動」を植えつけられます。具体的には、①「物」のように取り扱われた人は、それが当たり前のこととなってしまっているがために、今度は被抑圧者同士のなかで、自分以外の「弱者」と思(おぼ)しき人を、「物」扱いしてしまうかもしれません。②被抑圧者は、社会構造を理解できないようにさせられていることから、何らかの理由(階層、世代、国、地域、文化、ジェンダー……)でばらばらに分断させられてしまうかもしれません。あるいは③上下関係が長く存在してきたことに慣れてしまい、「偉(えら)い人」(お金もち、政治家、有名人、アイドル、セレブ……)に言われるがまま行動してしまうかもしれません。そして④「偉い人」の考え方(それとない自己責任論など……)を自分のものにしてしまったり、そうした人の言葉をそのまま受け入れたりするかもしれません。以上の結果として、被抑圧者は「沈黙」させられてしまう、とフレイレは言います。そして被抑圧者の側の政治運動や社会運動でも同じような行動パターンが見られてきたと警告します。

 

6 対話的行動としての階級闘争

 

そこでフレイレは、これとは真逆の「対話的行動」が――抑圧状況を変える実践、あるいは階級闘争そのもののなかで――必須になると主張します。①「物」としてではなく、お互いに言葉(声、身ぶり、行い、考え)を発することができる人間として接すること、②被抑圧者が団結できるために、「被抑圧者が抑圧者に縛(しば)りつけられている客観的構造」を理解しあうこと、③対話にもとづきながら、自分たち自身で組織をつくり運営していくこと、そして④この行動の指導者と、そうではない人のあいだで、考え方や言葉を総合させていくことです。この四つの特色をもったフレイレの「対話的行動」は、今日(こんにち)のラテンアメリカ民衆教育運動の原型になっています。

ところでフレイレは、対話的行動での「指導者」の存在を強調します。指導者は、対話的行動の立案、企画、進行を行う人です。こうした人は、事前準備と訓練を受けたうえで、被抑圧者の対話的行動を促し、彼・彼女らの労働・生活状況に目を向けさせ、そのなかに、さまざまな矛盾をはらんだ社会構造(階級支配、家父長制、人種差別……)があることに気づかせます。こうしたなかで被抑圧者自身が、抑圧構造そのものを変える主体になる――その助産師(じょさんし)役になるのが指導者、あるいは民衆教育活動家だと言うのです。

今日の階級闘争において求められるオルガナイザーとは、このフレイレの提起する「指導者」なのではないでしょうか。

 

7 現代のオルガナイザーに求められる三つの役割

 

そして、こうしたフレイレの議論から、今日のオルガナイザーに求められる三つの役割が見えてくると私は考えます。最後に、それを述べることにします。

第一に、抑圧状況を生みだす社会構造の分析・教育です。オルガナイザーは、対話だけすればよいというわけではありません。また獲得可能な目標にもとづく戦略や戦術を対話からつくりあげる、というだけでもいけません。オルガナイザーは、現場の状況を客観的に枠づけているような社会構造を――現場の協力者とともに――分析し、その結果を、現場の人に通じる言葉でもって表し、対話のなかで理解してもらわなければなりません。この社会構造は、まずもって資本主義的階級社会ではありますが、同時に、生(せい)の営みにおける多様な問題や分断構造とも絡みあっています。オルガナイザーは、この入り組んだ構造が、現場とどのように関わるかを、具体的に語らなければなりません。この意味でオルガナイザーは、民衆教育活動家であるべきなのです。

第二に、自らの政治性の堅持(けんじ)です。ここで言う「政治」とは、どこかの政党を直接支持するとか、そこに勧誘するとかいった、狭義(きょうぎ)のそれではありません。階級闘争は、個々の現場での闘いでもありますが、その現場は、自治体レベル、一国レベル、さらには世界レベルでの階級的社会構造にも枠づけられています。社会的規模での抑圧状況を積極的に変えていく――このような目標は、社会的規模での意思決定によってなされざるをえません。オルガナイザーは、こうした広義の政治性を対話的行動において堅持し、ときに明言すべきなのです。

そして第三に、オルガナイザー自身の絶えざる自己反省です。フレイレは、反対話(はんたいわ)的行動が被抑圧者の側の運動にも見られると指摘しました。オルガナイザーによる単なるスローガンの宣伝は被抑圧者の言葉とは乖離(かいり)し、「カリスマ」や「偉い人」にただ「ついていく」だけの運動がつくりだされてきました。こうしたことは、オルガナイザー自身が、上下ある階級社会のなかで生まれ育ってきたのだから当然、犯しうる行動なのです(筆者の私も例外ではないでしょう)。フレイレの言葉を借りれば、抑圧者はオルガナイザー自身にさえ宿っているのかもしれません。

だからこそ、階級闘争におけるオルガナイザーは、現場で闘う人たち、あるいは沈黙を余儀(よぎ)なくさせられている人たちとの対話のなかで、社会の理解を促したり、政治性ある言葉を発したりするだけではなく、反対話(はんたいわ)的行動を自らがとっていないかと、絶えず自省しなければなりません。もちろん、この自省もまた、一人でなされるものではなく、現場の人たち(オルガナイザー同士も含む)との対話のなかで進められます。

以上の三つの役割を、オルガナイザーは自覚しなければならない――このようにパウロ・フレイレは示唆していると私は考えます。

さて、みなさんは、どう思われますか?

 

 

 

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