鈴木一「(組合員の手記)労働組合と出逢って」

組合員が退職するにあたってまとめた手記です。労働組合と出逢いが、文字通り彼女の人生を変えたと言ってよいでしょう。労働組合との出逢いがどのようなものかを知っていただきたいと思います。お読みください。

 

今から5年前、私が60歳の誕生日を1ケ月後に迎えるという日でした。

ほとんど、売り場(私が勤務している地下街の店舗)に顏を出した事がない社長が突然やって来て「話があるから」と、私は近くの喫茶店に連れて行かれました。そして「来月、60歳だよね。定年だから」と言われました。私は驚き声が出ませんでした。

確かに、今まで、同じ売り場に60歳を越えて勤務している人が2人おりましたが、どちらも、元正社員で60歳を迎えると同時に「パート」として賃金や休日など、多少の変更はありましたが、そのまま勤務しておりました。また、他の売り場にも過去に60歳をとうに越えても、勤務している人がおりましたので、社長にその事を話すと「その人はパートでも、長い間、働いてくれて、功労者だから別だ」つまり、当時勤続15年目の私とは違うという意味でした。そして、「今の会社には続けて働いてもらうだけの体力がないんだよね」と言われ、とにかく辞めてほしいと言う事でした。

私は、これからの自分の生活を思い、何と返答して良いのか、頭の中が、真っ白になりました。ようやく「家族と相談して来ます」としか、考えられない私に、社長は「何を相談するの?」と言われ、選択肢はないと言う事でした。

 

当時、私には、認知症で入院している母がおり、母にかかる費用は、長い間、公務員として働いて来た母の年金で全て賄う事は出来ましたが、私の生活費とまでは無理で、自分が働かなければ生活して行けない状況でした。

しかし、社長は私を納得させようと、あの手この手で言われたと思うのですが、私はこれから先の不安で頭がいっぱいになり、何を言われたのかよく覚えておりません。ただ「それは、就業規則にあるのですか?」と聞くと、「ある!」と言われましたが、売り場の誰ひとりとして、就業規則を見た者はいませんでした。そして、なかなか納得しない私に「もし、この仕事をするなら、使ってやっても良い」と言われました。しかし、その仕事は複雑で、大きな機械を動かさなければならず、とても女の私ができる仕事ではありませんでした。社長は相手が自分の意に従う返答をするまで、その場から解放しない事で有名で、執拗に私を追い詰めてきました。

私は、母の面会に行きたい一心で思わず「辞めます」と言ってしまいました。しかし、帰宅して冷静になると、これからの自分の生活を考え、安易な返事をしてしまった事に、心から後悔しました。そして、それから自分が生きて行く為に会社と闘わなければと思いました。

 

私は、このような状況を相談できる所をパソコンを使い、ネットで探し始めました。仕事から帰って食事もそこそこに、毎日、毎日、相談に乗ってくれる所にメールを送り続けました。それはもう、日本中の相談窓口に送りました。しかし「退職を承諾してしまったら、無理です」と言う返事がほとんどでした。

娘も一緒に探してくれ「札幌弁護士会が無料で相談に乗ってくれる」と言う情報を得て「急な相談は無理」と言う先方に必死で頼み込んで相談に行きました。しかし、やはりそこでも「退職と言う方向で考えるしかない」と言われました。そんな中、会社からは「退職届」の用紙が自宅へ郵送され、私はもう無理なのかと思い始めた時、メールの返事の中に「退職を同意した事を取り消す手紙を、内容証明付の郵便で会社に送れば撤回できる」と言うアドバイスがありました。

私は早速、「退職の撤回」を会社へ郵送しました。案の定、手紙を見て驚いた社長が飛んできて「これはどう言う事か!」と、又、退職を迫って来ました。

 

その間も、私は相談メールを送り続け、もう相談できる所は、ここで終わりだと思った最後の所(東京にある全統一労組だったと思います)で、「労使関係に詳しく本当に親身になって相談に乗ってくれる人がいるので」と言って紹介して頂いたのが、札幌地域労組の書記長(当時)をしておれた鈴木さんでした。そして、すぐに鈴木さんの方から「詳しく話を聞きたい」との連絡を頂き、お会いしてこれまでの社長とのやり取り、経緯を全て聞いて頂きました。

すると、鈴木さんは「今までの社長との話をできるだけ詳しく文章にてほしい」と言われ、思い出す限り文字にして渡しました。それを見た鈴木さんは「大丈夫!辞める必要ないから。従業員がいつでも見られる所に置いていない就業規則は、ないのと同じだから!もし、社長に呼び出されたら、これを見せなさい。渡してもいいから」と、鈴木さんの名刺を下さいました。そして「すぐ、会社に団体交渉を申し入れる書類を送るから」と力強く言って下さり「地獄に仏」とは、まさにこの事。私は、ようやく出口を見つける事が出来ました。

社長からは、その後も呼び出され、退職を詰め寄られました。私は、鈴木さんに言われた通り名刺を出し「今、ここに相談しています」と言うと、社長は驚き「これ、貰ってもいいか」と言って、名刺を受け取り、すぐに帰りました。それからは呼び出される事もなくなり、社長と直接、話す必要がなくなりました。

 

そして、間もなく1回目の団体交渉が組合の事務所で行われました。社長は弁護士と、私は鈴木さんとの4人の話し合いが始まりました。案の定、社長は、私のある事ない事、どれだけ悪い従業員で使いにくいかと、鈴木さんに訴え始めました。その中には、本当に身に覚えのない事もありました。しかし、鈴木さんは、毅然として「そんな理由では、辞めさせられない。そもそも、就業規則なんてないのだから」と、全く受け付けず、逆に、きちんとした就業規則を次回までに用意するよう話し、その日は、終了しました。

2回目の団体交渉は会社側の作った就業規則を確認して、おかしな所は訂正させ、従業員は65歳まで働けるよう明記することを求めました。そして、3回目は訂正された就業規則に基づいて、ほとんどこちらの要求通り、今までの勤務体制と変わらない条件で、65歳まで勤務できると言う契約書を交わす事で闘いは終わりました。鈴木さんと私の完全勝利でした。

闘いを終えて、ようやく、私は、心から安堵の気持ちになり、鈴木さんには感謝の思いで一杯でした。私の生きる道が、また繋がったのです。

 

その後の5年間も、社長は何かにつけ、些細なことで何クセをつけて、私を自主退職させようとして来ましたが、組合員となった私に、鈴木さんは「何か困った事があったら、いつでも言って来なさい」と言って下さり、「近くまで来たから」と言いつつ、売り場に寄って、私の様子を見守って頂き、店の商品(和菓子)をお買い上げ下さいました。それは、私が退職するまでずっと続きました。

5年間もの間、何の不安もなく、無事、勤められたのは、地域労組のおかげだと、本当に感謝しております。

そしてこの度、無事19年間の勤めを終え定年退職致しました。その退職にあたり、残っている有給休暇を消化したいと会社にお話した所、会社側から言われた日数は労働基準法で定められた日数よりはるかに少ない日数でした。これに対し地域労組から正しい日数を計算して会社側に提示して頂き、会社側が提示した日数より10日間も多く有給を消化することが出来ました。

この会社では、今まで私の様に有給を消化して退職する事は、出来ないと思い込まれており、有給休暇を全て消化して辞めた人は、過去一人もおらず、今までお世話になった仲間にも、いい前例を残させたと思うと同時に、最後の最後まで、守ってくださった鈴木さんには、只々、感謝の気持ちで一杯です。

あっと言う間の5年間でしたが、もしあの時、地域労組にめぐり会えないままだったらと思うと、ぞっとします。今の私は、ありえません。

 

たった1人でも、加入できる組合があると言う事、たった1人の人のために全力を尽くしてくれる人がそこにいます。絶対、あきらめない事、そうすれば、必ず道は拓けます。これからは、わずかな年金生活になりますが、鈴木さんをはじめ、家族や力を貸して頂いた方々に感謝しつつ、自分でも、小さな事でも良いから、誰かの助けになれたらと思いつつ、そして、あきらめなかった自分を、少しだけほめてやろうと思います。皆さん本当にありがとうございました。

山田恵子(仮名)

 

(関連情報・記事)

札幌地域労組のウェブサイト

鈴木一「仕事で困ったときには団結剣がある──学生・若者たちへのメッセージ」

 

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