浦野真理子「インドネシアで私が出会った宗教と友人たち」

2021年10月のチャペルタイムでお話した内容です。インドネシアはとても文化が豊かな国です。私がインドネシアで出会った宗教と、そこで出会ったたくさんの素敵な友人たちについてご紹介します。

 

西スマトラ州で2018年撮影。インタビューさせてもらった人々と撮影。

 

 

聖書箇所「見よ、私はあなたと共にいる」(創世記28章15節)

 

1.インドネシア研究の契機

経済学科の浦野真理子です。私はアジア経済の授業を教えていますが、調査研究はインドネシアの森林地域に住む人々の生活の変化を聞き取りと参与観察というやり方で調べてきました。インドネシアは人々の生活にとても宗教の影響が強い国です。今日のチャペルタイムでは、インドネシアで出会った様々な宗教を持っている友人たち、そして私自身の神様との出会いについてお話したいと思います。

インドネシアは東南アジアで国の広さも人口も一番大きな国です。私がインドネシアを訪問するようになったきっかけは、大学時代に環境保護団体でボランティアをしていたことです。大学にアマゾンの森林減少と先住民の権利について講演に来てくれたブラジル人の方がおられました。その方が日本で森林減少と先住民の権利保護に取り組んでいる2つの環境保護団体を紹介してくれたのです。そちらに出入りするうちに、インドネシア語を教えてもらったり、実際にインドネシアを訪問するという機会に恵まれました。

 

2012年西ジャワ州で撮影。水田の様子。
漁民たち。

 

インドネシアは世界でも有数の熱帯林を持っています。世界で最大の熱帯林面積を持っている国はブラジル、2番はコンゴ、そして3番目がインドネシアです。当時の日本は建設ブームでコンクリートを固める時の「型枠」としてインドネシアの木材が多く輸入されていたので、日本はインドネシアの森林減少に大きくかかわっていました。1992年に初めてインドネシアを訪問し、現地NGOの方がボルネオ島のインドネシアとマレーシアとの国境近辺に連れていってくれました。そこにはボルネオ島の先住民である焼き畑農業を営むダヤク人が暮らしていました。町からの交通手段はプロペラ機で1週間に2回の飛行機の定期便は天候が悪いと飛ばなかったり、村と村の交通は徒歩だったり、ロングハウスという長い住宅で皆が暮らしていたり、薪で料理をしたり、トイレがなかったりと、すべてが新鮮で忘れられない経験でした。そして大学院で博士論文のテーマを決める時に、インドネシアの森林減少が現地の人々の生活及ぼしている影響を調べたいと思い1997年に長期でインドネシアへ渡航しました。

「参与観察」というのは、ある社会のことを調べる時に、いきなり部外者がいくと警戒されますが、長期間滞在しているとだんだん慣れてきて部外者がいないときと同じふだんの生活をするのでそれを観察する、という方法です。そのため調査は長期間の滞在が基本となります。インドネシアで長期滞在と農村調査を行うためには、インドネシア政府が発行する「調査許可」を取る必要があります。私は1997年にインドネシア語を勉強しながら調査許可の手続きを進めるために中部ジャワの町ジョクジャカルタのガジャマダ大学に行くことになりました。

 

2013年 東カリマンタンのダヤク人の村。焼き畑の家族。

 

2.インドネシアの歴史と宗教

ところで、インドネシアとはどんな国でしょうか?インドネシアの国のモットー「多様性のなかの統一」という言葉にあるように、インドネシアは世界でも最も多様性に富んだ国で、300を超える民族、600の言語、そして、国民のほとんどは6つの公認宗教を信奉しています。6つの公認宗教とはおよそ90%の国民が信奉するイスラム教のほか、プロテスタント、カトリック、仏教、ヒンズー教、そして儒教です。実はインドネシアにはアニミズム信仰も多いのですが、「宗教」には分類されていません。「公認宗教」というと違和感があると思いますが、これはインドネシアという国の特殊事情が影響しています。

インドネシアの国土となっている広大な地域は17世紀以降、オランダに植民地支配されました。ヒンズー教と仏教が紀元3世紀ごろに、そして、イスラム教が11世紀ごろアラブやインドの商人によって地域にもたらされました。16世紀にポルトガル人が東部地域住民をカトリックに改宗させました。オランダ人は350年間支配植民地支配したのですが、支配の中心地だったジャワ統治の目的は熱帯産物の生産と貿易の独占であり、イスラム教を信奉するジャワの住民の統治は現地王族を通じた間接的なもので現地の宗教への干渉はありませんでした。19世紀終わりにジャワ以外の「外島」と呼ばれる地域で直接統治が始まり、当時民族主義を強めていたイスラム教へ対抗する目的で宣教師が精霊信仰をしていた住民にキリスト教を広めました。私が調査を行っているボルネオ島内陸部でもこの時やってきたアメリカ人宣教師によって住民の改宗が起きています。19世紀に民族主義が台頭してきましたが独立運動は厳しく弾圧されて、結局1943年-45年に日本軍が軍事占領するまでオランダ支配は続きました。

2年間の日本軍支配は非常に過酷なものでした。インドネシア民族主義のリーダーだったスカルノは戦略的に日本と協力し、日本の敗戦ののちにオランダ軍が戻ってくることを予測し、日本軍から軍事訓練を受け、1945年8月17日に独立宣言を行いました。日本の敗戦後、予想通り戻ってきたオランダとの間で4年間の独立戦争となり、スカルノたちは劣勢でしたがアメリカの調停でオランダは撤退し、1949年にインドネシアは独立を勝ち取りました。

しかし、国土が極めて広く多くの民族や宗教が存在していることから、独立したあともインドネシアには分離独立運動が存在してきました。そうした事情を背景に、国をまとめるためつくられたのが「パンチャシラ」というインドネシアの建国思想です。「パンチャシラ」は、統一神への信仰、人道主義、ナショナリズム、国民を代表する政府、社会正義の5本の柱からなっています。「統一神」への信仰という柱のもと、6つの公認宗教のいずれかを信じることが国民の義務とされました。これは宗教的対立を何とか避けようとした努力の表れですが、宗教の自由を一定の枠にはめるものであり、精霊信仰は劣ったものとして差別されることになりました。その一方で、この思想のもと、国民の9割がイスラム教という国で、微妙なバランスでキリスト教、仏教、ヒンズー教の国民との融和が実現してきたのです。

 

西スマトラで2019年に撮影。アブラハムが息子を犠牲として捧げようとして、神が止めたことを記念するIdul Adhaという祝日の様子。この日は皆で牛や山羊を犠牲として捧げ、貧しい人に施しをして皆で食べて祝う。

 

 

3.フィールド調査と宗教

私がインドネシアに最初に長期滞在を始めた1997年に戻りたいと思います。この年の9月アジア金融危機が起きました。私はジョクジャカルタの大学で外国人向けのインドネシア語コースでインドネシア語を勉強していました。しかし金融危機の影響は庶民に大きく打撃を与えました。失業が相次ぎ、インドネシア通貨ルピアが危機以前の3分の1に下がり、輸入品が高くなり物資も不足してきました。経済悪化の影響で、インドネシアはスハルト大統領の強権支配に不満を持っていた学生たちのデモが頻繁に起きるようになり、混乱に乗じた群衆の略奪も起き治安が悪化していきました。そんな不安な情勢のなか、韓国人の友人から韓国人のキリスト教会に誘ってもらいました。インドネシアの政治はスハルト大統領が1998年3月に退陣し安定していきました。しかし、情勢不安と、フィールドに行く前に調査への不安があるなか、教会で「神様はいつもあなたとそばにいる」と祈ってもらい、不思議と気持ちを落ち着けることができました。

インドネシアでは宗教はとても重要です。国策で多民族国家をまとめていくために、国民全員が持つIDに、各自が公的な宗教のどれに所属しているかが記載されています。宗教省もあり、結婚は宗教組織からの証明書が必要になります。宗教は政治的に利用されやすく、時として宗教対立も生まれます。しかし、それでも宗教によって個人は人生に意味を見出すことができ、切り開く力を得ることもできます。インドネシアで施しの精神に満ちたすばらしいイスラム教徒の人々にもたくさん会いました。ここでは私が滞在したボルネオ島の内陸部ダヤク人の村の例からお話します。

 

東カリマンタン州のダヤク人の村で2017年撮影。キリスト教会の牧師と青年会の若者たち。
東カリマンタンの村で撮影。地元の小学校へ通うイスラム教徒の子どもたち。地元のダヤク人の村人はキリスト教徒だが、アブラヤシ農園の出稼ぎ労働者にはイスラム教徒も多い。

私が調査研究のフィールドとして1998年から1.5年滞在し、その後も継続的に訪問しているダヤク人の村は500人ほどの人口です。プロテスタントが9割、カトリックが1割程度、外からやってきた若干のイスラム教徒が混じって暮らしています。生業は焼き畑農業で米作をしていますが、近年森林が減少し環境が激変しています。私はその変化について聞き取りを行ってきました。調査の時には民家に滞在させてもらっています。

ダヤク人は便利な土地を求めて頻繁に移動してきたのですが、彼らにキリスト教が伝えられたのは19世紀終わりから20世紀初めごろ、オランダがイスラム教主体の民族主義を警戒し、キリスト教を広めようと考えた時期のことです。それまでダヤク人はアニミズムを信仰してきました。最初はキリスト教への入信に大きな抵抗がありました。ダヤク人はロングハウスという長屋に住んでいましたが、最初に入信した人たちは集落の外に追い出されることがあったそうです。初期に入信した年配の方々のお話を聞くと、キリスト教信仰によって精神が強められ、学校に進学したり教師になったりと、焼き畑農業を営んでいたそれまでの祖先とは全く異なった人生を歩んだ方々も多いことが分かります。

2011年東カリマンタン州のダヤク人の村で撮影。民族衣装を身に着け収穫祭に来る人々を迎える女性たち。

 

一方で、現地の村人が全員キリスト教へ入信したのは1960年代半ばに起きたインドネシアの政治動乱で共産党弾圧があったときです。彼らは軍隊に脅かされて、公認宗教を信仰しなければ共産党員だと言われ、イノシシを常食とする食習慣(イスラム教ではイノシシも豚と同一視され禁忌とされる)等をそれほど崩さずに済むキリスト教を選びました。それでもキリスト教は彼らの生活を色々な意味で大きく変えてきました。アニミズムの儀式の多くはキリスト教の儀式に姿を変えました。また、生活のリズムも変わりました。焼き畑農業では非常に広い土地を各年ごとにローテーションで回って畑をつくるため、家から遠く離れた場所で作業をします。そのため畑近くに小屋をつくり泊まり込むのですが、通うのが大変でかつては農繁期に集落になかなか戻らないことがあったそうです。しかし、キリスト教に改宗してからは礼拝に行くため、週を単位とした生活に変わりました。

葬儀もアニミズムの影響を受けたキリスト教式です。村でだれかが亡くなると銅鑼が鳴り、村人が集まり皆で遺族を慰めます。墓地の用意も村の人々が協力して進めます。翌日か、身分が高ければ数日の悔やみの時間を取ったのち、村の若者が棺をかついで墓地に収めます。葬儀は牧師か神父が執り行います。日本では葬儀や墓地をどうするかは最近悩みの種になっています。これはキリスト教に限らないことだと思いますが、インドネシアのそして開発途上国の村落地域では自分が死んだら葬ってくれる人、葬られる場所がはっきりわかっていることが多く、これは心に大きな安らぎとなることだと思います。

 

西スマトラ州で2015年に撮影した鳥と蝶。

 

村の人々の生活を見ていると、天候に収穫が左右され、病院も近くにない日々の歩みに信仰が力を与えていることがよく分かります。夜の森林の暗闇は本当に恐ろしく、今にも魔物が出てきそうな気がしてきます。ある女性は伐採企業に野菜を売りに行き、川のそばで夫の迎えを待つうち夜になるとき、神様が一緒にいてくれる、と自分を励ますと語っていました。

発展途上国農村の生活は、お金さえ出せばなんでも手に入る町の生活とは異なり、電気、水道、物資が不足し、お互いの助けなしには生活することはできません。17か月間フィールドワークを行った滞在中、村の人々は現地に慣れない私を気の毒がってくれ、常に助けてくれ、家の一番良い部屋に住まわせてくれ、食べ物の一番良いところを分けてくれました。果たして自分が同じように人を助け、もてなすことができるかと考えると、村の人たちには感謝の気持ちしかありません。滞在中は参与観察として村の教会へ通っていました。しかし調査の最後に村を離れる時にそれまでの道のりを振り返ると、私の歩みのなかにも多くの人との交わりを通じて神様が一緒にいてくれたことがよく分かり、村の教会で証しすることができました。神様に出会えた経験でした。

宗教には様々な面があり、不完全な人間に利用されるときには争いの原因になることもあります。しかし神様は一人一人の心に働きかけ、人生を導いてくださる存在でもあると思います。私たちの日々の歩みのなかに神様がともにいて下さるように心から祈ります。

 

祈り

愛する神様、日々不安と暗闇のなかを歩いている私たちといつも共にいて導いてください。特に、弱い立場にある人を常に顧み、助け合うことができますように。

 

東カリマンタンのダヤク人の村で2017年撮影。焼き畑農業で、コメを収穫する村人。

 

 

 

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