「一歩前」歩く憲法
自分の身を守るため、銃が必要だとする社会と、銃の所持が法律で厳しく規制されている社会とでは、果たしてどちらが安全かという問いは、私たちの社会においては愚問であろう。
私たちは、銃のない社会がいかに安全であるか身をもって知っている。
2011年の銃による死者は米国が3万人以上。これに対し、日本は8人で、文字通りケタ違いに安全だ。
しかし米国では、全米ライフル協会が絶大な影響力を持ち「学校に武装したガードマンがいなかったから、乱射事件が起きた」という理屈がまかり通る。
各自が銃を保持することで市民社会の安全を担保するという考え方は、地球規模で考えた場合「核兵器で平和が保たれる」という理屈と似ていないだろうか?
過去には、一発の銃声が戦争に発展したこともある。時には相手の攻撃をあえて誘い、それを口実に開戦という例も珍しくない。
先を争うように派手な破壊兵器を開発し、それをひけらかし、敵対する相手国の鼻先で威嚇しあう行為は平和を作るどころか、いつ暴発してもおかしくない国家指導者らによる火遊びだ。我が国もその片棒を担ぐ末席にいる。
それでも憲法9条は、ぎりぎりのところで我が国の為政者たちに絶対に戦争に参加してはならない、という足かせの役割を果たしている。
憲法の看板はボロボロだが、人類の理想を掲げ、我が「地球村」で一歩前を歩いているのだ。
2013年4月12日 毎日新聞(北海道版)掲載 Re:北メールより
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