映画館での映画鑑賞は、心安らぐひとときです。敬愛するケン・ローチ監督の映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』公開にあわせて駄文を書く機会に恵まれました。『北海道新聞』夕刊2017年3月16日付に掲載された一文です。思いを込めて書きました。
失業、病気、老衰など人生には様々なリスクがついてまわる。「わたしは、ダニエル・ブレイク」は政治がつくり出す格差や貧困と人間の尊厳を描いた英国映画だ。大工として実直に生きてきたダニエルは、最愛の妻を介護の末看取り、今は病気で仕事を止められ、手当の給付を受け始めた。ところが審査では、就労が可能と判断され、手当は打ち切られ、再就職活動を余儀なくされる。実際に働けるわけではないがそれでも真剣に取り組まなければ、不適格者とみなされて新たな手当の支給が受けられない。
ここに描かれているのは矛盾である。生存権保障のためにある社会保障・福祉制度が、高度化というより複雑化して、助けを必要とする人びとを翻弄し、むしろ排除していく。
家を追われてロンドンから見も知らぬ土地に引っ越してきたシングルマザーのケイティもまた、ただ助けを必要としているだけなのだ。だが、救済を受ける者の生活水準は自活して働く者以下に抑えなければならない「劣等処遇の原則」が貫かれた制度には、2人の幼い子どもたちを抱えた彼女にまともな暮らしを保障する「意志」はない。一家は容赦なく貧困に追い詰められていく。救いは「君は何も悪くない」と自らもまた助けを必要とするダニエルがケイティ一家を優しく支え、親子ほどに年の離れた2人に温かな友情が生まれていく、その姿である。
自己責任が強調されるアメリカから、高い税負担の代わりに手厚い保障が整備された北欧諸国まで、社会保障制度・福祉国家の「顔」はさまざまだ。「ゆりかごから墓場まで(の保障)」と称された、映画の舞台イギリスでは、サッチャー政権以降に福祉の解体と市場化が進み、さらに緊縮財政政策によって福祉の貧困化が深刻である。もちろん、国が定めた基準以下で暮らす世帯の生活保護受給割合を示す捕捉率をみても、日本に比べて制度は機能している。だが、本作に映し出される、制度を体現化したような職員の官僚的で冷淡な対応には、陰鬱な気持になる。
しかしそれは見慣れた光景だ。貧弱なセーフティネットゆえに、安心して失業などしていられない日本では、まともな職ではないことがわかっていても、自らを労働市場に投げ入れ、働かなければならない。考え方自体は評価できる「福祉から就労へ」という政策の流れも、その財源や就労に向けた支援が不十分な現状では、労働力の窮迫的な販売を失業者に強いる「むち」となるだけだ。一方の正規雇用も、貧困への転落を回避することを優先すれば、どんなに過酷な状況であってもそこにしがみつかざるを得ない。
こうして、失業率こそ低いけれども貧困大国・過労死大国が出来上がる。そこで働く者たちの鬱屈した思いは、生存権をただ行使しているだけの生活保護受給者たちに攻撃となって向かう。それに火をつけるのが政治家たちだ。以上がこの国の現状である。
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困窮した生活の中で自らを責め、子どものためにと一線を越えてしまうケイティ。制度からはじかれ続けて苦悩を深め、やがてケイティ一家からの支援さえ拒もうとするダニエル。制度に翻弄され、尊厳を傷つけられ、自暴自棄に陥りそうになるその「回路」は理解し難いものではあるまい。では、私たちに何ができるのか。
「わたしは、ダニエル・ブレイク」。この映画タイトルにこめられた思いは、為政者によって流布される薄っぺらな“絆”や“助け合い”の強調などではもちろんない。人間をおとしめる政治の告発であり、人間の尊厳を守るためにあらがうことへの賛美である。
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