くましろちかこ「(手記)非正規公務員として働いていたときのこと」

『なくそう!官製ワーキングプア/あなたのマチの非正規公務員問題の解決 手引き 其の壱』(2018年4月発行)から転載した、自らもかつて非正規公務員として働いた経験を持つ、くましろちかこ石狩市議に書いていただいた手記です。

非正規公務員の方々から話を聞く機会があっても、その内容を公開することは容易ではありません。上司やまわりの正職員に知られてしまうことをおそれたご本人の意向にそって、聞いた話の内容をぼかして書いたり、割愛せざるを得ないことは珍しくありません。そのことをもって、彼ら非正規公務員には要求や不満はとくにない、と結論づける声が自治体当局や労働組合から聞かれることがあります(その構図は、民間企業・労組においても同様に見られることです)。新たな非正規公務員制度(会計年度任用職員制度)が2020年4月から始まりました。問題に正面から向き合う上で読むべき一文です。(川村雅則)

『なくそう!官製ワーキングプア/あなたのマチの非正規公務員問題の解決 手引き 其の壱』(2018年4月発行)表紙

 

「自治体非正規職員だった頃のことを書いて」と頼まれ、二つ返事で受けたのに全く書き進まない。ゴメンナサイ。この気の重さは一体なんだろう。いつもの締め切り伸ばしのそれとは明らかに違う。「あの頃のことを思い出すと胸が痛むから」そんな単純な理由だけではない。あの頃、社会に出たばかりの若い自分が5年間嫌というほど感じていた「結局は、何者にもなれない私」「結局は、ここにはいらない私」という苦い記憶は、私の心にオリのように積み重なり、今も低い自己評価のベースとなっている。あの頃を振り返るほどに、市議となり非正規問題に声を上げる今ですら、結局少しも当事者の立場から抜け出せていないということに気づき、同じ苦しみを負う人の助けになるなど無理だと立ちすくむ思いになるし、そして何より赤裸々な思いを書き綴ったって、どうせ理解してもらえないだろうとも思う。それらの複雑な感情が、私をどうしてもフリーズさせるのだ。このドロドロと鬱屈した「恨み」にも似た感情こそが、非正規問題の根深さだと前もって伝えておきたい。

 

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一般的には官製ワーキングプア問題は、自治体の正規職員とほぼ同等の業務に従事する非正職員が、正規職員の年収の三分の一、約200万円以下で、働いているのに暮らせなく、さらにはいつ雇止めになるかわからない働き方を余儀なくされていることが問題とされている。しかし、本当に苦しいのは自分の「能力」や「資質」で評価されず「非正規」であるということが理由で、職場において差別されること、つまり自分が行った「仕事」も、「人」としてまでも、正規職員ほどは大切に扱われないことだ。

これは一見飛躍しているようだが、問題の本質は「部落差別」と同じ理不尽だし、「いじめ」や「DV」と同じ加虐・被虐の構造にあると思っている。相手が暴力的になるその原因は「相手の中にある問題」であって、自分には解決しようもないことなのに、「相手の問題」を「自分の問題」として深刻に捉え、相手を変えようと偏執したとき、それは抜けられない地獄の苦しみとなる。暴力から逃れるには、結局自分が「相手の前から」去るしかないからだ。

「自分の力を正当に評価され、働き続けたい」という、労働者として真っ当な願望を持ったら、苦しむのは自分。そうさせない問題を抱えているのは相手側なのだ。だから大抵の非正規職員は「評価されない」ことに傷つかないように自分の頑張りの方を調整しているし、仕事中も「次自分は何をして生きていくか」の問題を抱えているので、気もそぞろだ。信じないかもしれないけれど、「苦しむ」か「あきらめる」どちらかを選ぶしかない私たちには、「相手」を変える選択などはなかったのだ。少なくとも私の5年間のうち、助け舟は一度も前を通らなかった。だから私の怒りは、声を上げる手段を奪われた使い捨ての労働者の苦しみを、横で黙って見ていた不感症のエゴイストたちに向くのだ。

 

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私の5年間の経験のうち初めの2年間は、実家のあるA市の子ども関係の嘱託職員だった。大卒で就職した食品メーカーの営業職を数年で体を壊し退職したあと、実家に戻り引きこもっていた私は、一念発起して「子ども方面の仕事に就こう」と決め、大学の通信教育で小学校教員免許を取ることにした。A市の嘱託の仕事は児童手当、児童扶養手当を給付する窓口業務だった。勤務時間が早く上がれたこと、夏期冬期はスクーリングがあるため有給休暇があるのも好都合だった。実家で暮らす私にはこの薄給でもなんとかなると条件が合っていたのである。

課の正職員は若い人が多く、仕事終わりに飲みに誘われ、初めはそれなりに楽しくやっていた。しかし、とある飲み会の翌日に職場に出勤すると、机を隣にする直属の正職員が一切その日を境に口をきいてくれなくなった。初めは自分が飲み会で何か気に障ることを言ったのかもしれないと理由を聞く機会を探っていたが、何週間たってもその人は私を避け続け、子どもじみた態度や嫌がらせを受けるようになり、私の心は頑なになって同じ職場の非正規職員と陰でグチを言うようになった。そうしなければ心が持ちそうなかった。2年間他の正職員や係長も彼の態度に気づいていながら、彼に一切諫めも、アドバイスもしなかったのである。そのことが一番辛く、全員に対し不信感を持っていたが、とにかく黙って仕事をこなした。台帳チェック、給付額チェック、封入作業、ただそれだけに意識を集中させていた。母子家庭になった母親が必死の形相で窓口に来るたびに嫌そうに窓口対応し、席に戻ると嫌味を言うような正職員の職場で、何の働く喜びも、尊敬も、学びも得ることなく機械的に働いた。

二年経ち私は教員免許の取得ができ、一日でも早く職場を去りたかった。去る前日にその正職員を呼びだし、一体自分の何が悪かったのか尋ねた。しかし、驚くことに「記憶にない」「特に理由はない」と口をにごしたのである。悔しかった。今でもたまに夢に見るくらいだ。私が若く生意気だったのかもしれないけれど、しかしそれは「非正規職員」だからこそ向けられたストレスのはけ口だったのではないだろうか。私にはグチを言い合う同じ非正規職員一人しか味方はおらず、今でこそ解決手段も反撃方法も身に着けたが、この頃の私はただ負け犬のように、黙って去るしかなかったのである。

 

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その後、職員室の息苦しさに教員の道を諦めた私は子ども福祉方面で働きたいと考えるようになり、別のB市で募集していた「家庭児童相談員」の職に応募した。応募要件として、小学校教諭免許が該当したのである。今思うと本当にご苦労なことだが、その当時次は「社会福祉士」を取得するぞと、学校に入り勉強を始めたばかりだった。B市では一人暮らしを始めていたので、この仕事だけで身を立てるのは難しく、副業もかなわず、苦肉の策として社会福祉士を取得する学生に対する北海道の奨学金を借り、これを学費と生活費にあてた。2年間で200万ほどだったと思う。

その職場は一人の管理的業務を行う正職員と、非正規の家庭児童相談員が3名、母子相談員が2名、特別非常勤の臨床心理士のカウンセラーが2名いた。仕事は想像以上にとてもハードだった。18歳までの子どもの問題、発達、不登校、家庭内暴力、困窮、虐待、なんでもありだった。なんの知識も経験も乏しい若造が子連れの母親と面談室で話を聞き取り相談に乗るのである。時には、虐待通報で子どもを保護するために児童相談所と同行したり、その後の親子支援で家庭訪問することもあった。私は申し訳なさと何もできないという思いで押しつぶされそうだった。家に帰ると締め切りの迫った資格取得のためのレポートの作成に追われ、生活には常に余裕がなくストレスも溜まっていった。

それでも、救いだったのは上司から責められなかったことである。学校や親がお手上げの子どもにたかが相談員ができることは限られていて一緒にゲームをして時間を過ごすことくらいだった。そのことを責められていたら私はすぐに辞めていたと思う。「何もできない」と正直に不安がる自分を、職場の上司は「支援する人の支援」という深刻な課題として真剣に受け止め、相談員の力をエンパワメントできる体制を整えてくれた。私も弱音や泣いてばかりではなく、少しでもせめて落ち着いて話を聞くことができるようにと、休みの日には自費で研修を受けに行った。

一方で正職員の男性は、基本的には何でも話ができる温厚な人だった。数で非正規職員が圧倒しているだけでなく、相談員なくては業務にならない仕事であったため、相談員が何を望んでいるかをよく聞きとってくれた。また、その男性職員は小さい子どもの父親でもあり、保育園の迎えで早々に帰宅するので、それを理解し相談員が残業することも多かった。それでもどうしようもない格差は日々嫌というほど思い知らされた。正規職員はボーナスが出るたびに長期休みを取り旅行に行くし、人間ドッグも、自分と同じ資格取得の費用も市費で出ることを知り、嫌気もさした。毎週末行く研修や学習会は、相談員にとって自分の相談技術に直結するものであったが、正職員は自費で学ぶ感覚など端からないようだった。

何より努力することが空しいと感じたのは、自分が責任を持って何年も担当するケースについて、関係者で会議を持つときに、非正規職員である自分の意見を述べることができなかったことだ。そこに同席するのは、正職員の保健師であり保育所などの担当者である。それを横並びに支援者として発言できないことは、心折れることだった。

相談者にとっては、目の前の人が正規か非正規は関係ないことだ。長く勤めるうちに、自分が重要なキーパーソンになっていく子どもが増えるほどに、いつかはこの子どもたちとの関係を断つ準備もしなければならなかった。経験と知識を積むごとに、退職の日は近づいてくる。5年年限が近づいた先輩は、明らかに情緒不安定となり、延長が決まった一年が始まってもすぐに「次の更新はないかもしれない」と憂いていたのを思いだす。あなたがいないと生きていけないと言われながら、大事にはされないし、いつ捨てられるかもしれない。本当に非正規職員は自治体に飼いならされたバタードウーマンなのだ。

 

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2016年12月、朝日新聞に掲載されたこのニュースを私は一生忘れられない。

 

自死の非常勤職員、労災求め遺族提訴「死んだ後も差別」

 

非常勤(嘱託)職員の娘が自ら命を絶ったのは、パワハラや不適切な労務管理が原因──。そう考える両親が娘の元勤務先の自治体に損害賠償を求め、提訴する。常勤と異なり、非常勤職員の本人や家族からの公務災害(労災)の認定請求が認められないことの是非を問う異例の訴訟となる。亡くなったのは当時27歳の森下佳奈さん。2012年4月、北九州市の非常勤職員になり、区役所の「子ども・家庭相談コーナー」の相談員として働いた。

両親の代理人の生越(おごし)照幸弁護士(大阪)らによると、佳奈さんは採用から9カ月後の13年1月、心身の不調を訴えて休職。うつ病と診断され、3月末に退職した。

15年5月21日、多量の抗うつ剤や睡眠導入剤を飲んだあとに亡くなった。

両親は生前の佳奈さんの話やメールなどをもとに、日常的に上司から叱責(しっせき)や嫌がらせを受けた▽難しい対応を迫られる業務を新人の佳奈さんに担わせ、サポートも不十分だった──と判断。

2016年9月、労災認定を請求できるか市側に照会すると、市側は「非常勤職員本人や家族には認定請求権はない」と答えたという。

北九州市は非常勤の労災について、条例や条例施行規則で、所属長からの報告を受けた担当部門が労災と認めた場合のみ職員本人らに通知する、と定めているが、本人や家族からの認定請求に関する明文規定はない。

同市は朝日新聞の取材に、条例は旧自治省(現・総務省)が1960年代に各自治体に示した「ひな型」に沿って作られたと説明。

ひな型は本人や家族からの認定請求を想定した内容になっておらず、佳奈さんの両親に請求権はないと判断したという。

 

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「命」の重さにまで差別される。この屈辱がなぜ分からないのかと、いくら泣き言を言っても変わらない。なぜなら非情なのは「法律」で、「正職員」だからではないからだ。そのことをこの数年で痛感したし、今回突然上がってきた働き方改革の議論を受けて、自治体が手のひらを返したように非正規の働き方に問題意識を持ち始めたことも薄ら寒い気持ちで見ている。そしてまたこの新制度が非正規職員にとって新たな苦悩を生むだけではないかと危惧する。正規ではない、本物ではない、仮の働きなど、必要ないと思う。

 

 

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