浦野真理子「インドネシアに日本軍が残した戦争遺跡を訪ねる」

「インドネシアに日本軍が残した戦争遺跡を訪ねる」

 

北星学園大学経済学部 浦野真理子

 

以下は、2023年5月9日、北星学園大学チャペルタイムで話した内容です。

 

西スマトラ州ブキティンギに日本軍がつくった地下壕の中で撮影

 

私は札幌の北星学園大学でアジア経済論の授業を担当しています。ゴールデンウィークの4月29日の祝日は、昭和天皇の誕生日を記念する「昭和の日」ですが、この日は「戦争責任を覚える日」とも呼ばれています。アジア太平洋戦争の終結から80年近くたち、日本で戦争を実際に体験した人々は高齢化し減少しています。「戦争責任を覚える日」にちなみ、私が研究調査を行っているインドネシアに日本軍が残した戦争遺跡についてお話します。

その前に、私の祖父の話をします。京都府で一人暮らしをしていた父が昨年亡くなりました。空き家となった父の家の片付けの最中、箪笥の中から、母方の祖父の「軍隊手帳」を見つけました。軍隊手帳は旧日本軍の軍人が所持していた手帳です。20年近く前に山形県の実家を取り壊した時に母が持ってきて保管していたのです。

祖父は明治40年(1907年)生まれ、1989年に82歳で亡くなりました。祖父は生涯山形県に住んでいましたが、兵隊として中国に行ったことがあり、怪我をして日本に戻ったと聞いていました。今回見つけた軍隊手帳には、祖父の兵役の記録が詳しく書かれていました。その記録によると、祖父は母が生まれた2年後、日中戦争が始まった1937年8月に兵隊として中国へ送られましたが、翌年8月に山西省の太原で手榴弾の破片で右手に怪我をして野戦病院に送られ、その後中国を転々としましたが、1939年2月に大連を出発して大阪を経由し故郷の山形に戻ってきています。怪我をしたとはいえ、祖父は戦争から帰ってこられましたが、兵士として従軍した苦労は大変なものだったと思います。また、軍隊手帳とともに、政府から兵士に与えられた国債300円の証書も保管されていました。1937年の公務員の初任給は75円だったそうです(「レファレンス共同データベース」)ので、300円は当時それなりに大きな金額だったと思います。しかし、戦後、この国債は占領軍の指示で無効になってしまったようです。

祖父は徴兵され負傷し、与えられた国債も無効にされたという点で、戦争の被害者です。しかし、手帳には各地で祖父が「掃討」や「戦闘」に参加した記録があり、大変つらいのですが、中国の人々からすると、祖父は日本軍兵士として現地の人々の生命や財産を奪った加害者でした。これから私たちが戦争の被害者とならないだけではなく、加害者にもならないためにはどうしたらよいのか。過去の歴史から学べばヒントがあるのではないかと思います。そして日本がアジアに残した多くの戦争遺跡は、私たちが実際に訪問して当時の様子を知ることができる貴重な資料です。

私は東南アジアの国インドネシアの農村調査を研究テーマとして行ってきました。農村調査で住民のライフヒストリーを聞くなかで、日本軍が支配していた時代の体験を現地の高齢の方々から聞く機会があります。

現在のインドネシアは、かつて多くの地域がオランダの植民地支配下に置かれていましたが、1942年から45年まで日本軍の統治下におかれました。インドネシアで日本軍の統治は3つに分かれて行われ、ジャワ島は陸軍第16軍、イギリス領だったマラヤとスマトラ島は第25軍、そしてオランダ領ボルネオやセレベス(スラウェシ)島以東の島々は海軍が統治しました。日中戦争が泥沼に陥り、1941年8月にアメリカから石油の輸出禁止措置を受けた日本は、オランダ領東インドから石油や鉱物資源、ゴムなどの資源を獲得するため、オランダ軍を破って現在のインドネシアへ軍事侵攻を行ったのです。資源だけでなく、日本はインドネシアから「ロームシャ」と呼ぶ労働力の徴発を行いました。ロームシャたちはタイとビルマの間に建設されていた泰緬鉄道建設に動員され、そこではタイやミャンマーなどから動員された労働者とともに過酷な環境で働かされ、多くのインドネシア人ロームシャが異国で亡くなりました。また、政府の日本軍派兵の方針は「現地自活」と称して戦地に送られた兵士の食糧や物資を準備せず現地調達させるもので、結果として日本軍による略奪がインドネシアの人々を苦しめる結果となりました。

インドネシアに残る、日本軍統治と関連した遺跡のうち、西カリマンタン州のマンドールと、西スマトラ州のブキティンギの2か所を紹介します。

西カリマンタン州はインドネシア側ボルネオ島の西側の赤道直下に位置しています。西カリマンタンの州都であるポンティアナクから車で北に88キロ行ったところにある、マンドールという土地では、日本軍による住民の虐殺が行われました。ここは1977年に地元政府が建てた記念碑があり、日本軍によって虐殺された住民を悼むレリーフがあり、6枚のレリーフには日本軍の現地人の虐待と虐殺が描かれています。どのような経緯で虐殺が行われたのでしょうか。

日本軍統治が始まる以前、西カリマンタンには奥地に住み森林産物を交易していた先住民ダヤク人、マレー系のスルタンが支配する王国、そして18世紀半ばからスルタンが招いて金の鉱山開発などに従事した中国人、植民地支配を徹底しようとするオランダ人などが混在して暮らしていました。

日本統治下で、ジャワ島が陸軍支配下に置かれたのに対して、ボルネオ島は海軍「民政」下に置かれました。文官である民政府の統治としたのは、海軍支配地域を永久確保し、日本化=内地化を前提として経済的利益の獲得を目指したためです。海軍「民政下」で、多くの民間企業が軍の命を受けて木材、鉱業、農業などの分野で活動しましたが、戦時中に企業活動のために現地にわたった日本人は傲慢で、横暴にふるまいました(早瀬、2006年)。日本軍統治は、それまで微妙な多民族間のバランスで維持されていた現地の経済と社会に深刻な混乱を引き起こし、現地の抗日事件や反乱を招きました。こうした抗日事件や反乱の結果、現地のスルタン、植民地行政官など有力者・知識人を多数含む数千人とも呼ばれる現地の人々が日本軍に虐殺され、その現場となったのがマンドールだったのです。西カリマンタン州では1997年と1999年にも民族紛争が起きているのですが、有力者や知識人が根こそぎ殺されたことも、その後の社会的な混乱の一因になっていると考えられます。

次に紹介するのは、西スマトラ州のブキティンギという日本軍がつくった巨大な地下壕です。ブキティンギは、涼しい高原の気候でオランダ植民地時代から避暑地として知られ、母系社会で知られるミナンカバウ族の文化が残る美しい街です。日本軍統治下でスマトラ地区の司令部が置かれていました。日本軍が作った地下壕は、1986年に州政府によって歴史的遺跡として整備され、「日本人の穴」として観光名所になっています。

入口から深く階段を降りていくと、驚くほど巨大な空間が広がり、通路でつながった多くの部屋に分かれています。これらの部屋は司令部室、参謀室、会計室、大食堂、武器弾薬庫、兵隊の宿舎などに使われていたそうです。この地下壕は、ジャワ島その他から連れてきた大量のロームシャたちにより建設され、従事したロームシャたちは秘密保持のために建設が終わると殺されたと言われています(倉沢、1994年)。西カリマンタンや他の戦地でも同様だったのですが、日本軍は敗戦にあたって、証拠隠滅のため書類を焼却し、歴史を消そうとしてきました。しかし、日本軍が統治時代に行った残虐行為はインドネシアの教科書では必ず言及されています。アジアに残る戦争関連の遺跡は、日本人が過去の戦争責任を覚え、平和の尊さを学ぶための貴重な証拠です。

昨年の12月、日本の安全保障政策が転換しました。政府はそれまでなかった敵基地攻撃能力を持つことを閣議決定し、沖縄や各地で軍備増強を進めています。これに対し、1月に、戦時中に沖縄戦に動員された当時の沖縄の学生たちがつくっている「全学徒の会」が「沖縄を戦場にすることに断固反対する声明」(2023年1月12日)を出し、沖縄戦の残虐さを訴えるとともに、自分たちは被害者であるとともに、知らない間に戦争に加担した加害者でもあったと述べています。声明を引用します。

 

78年前の沖縄戦では、米軍の上陸に備え、県民は子どもから大人まで、日本軍の飛行場設営や陣地構築に動員された。正義の戦争だと教え込まれ、知らないうちに戦争の加害者となり、戦争に加担させられた。日本政府は今、日米安全保障条約の下で「中国脅威論」を盾に軍備増強を進めている。自衛隊と米軍の一体化がさらに進む中、国民の緊迫の度を高め、自ら戦争を引き起こそうとしているような状況と戦前が重なる。軍拡ばかりが前面に押し出され、住民の被害に対する思いは微塵もない。

 

この状況で、私たちが戦争の被害者になるだけではなく、再び戦争に加担してしまうことを強く危惧します。アジアの戦争遺跡は過去に日本人が加害者となってしまったことを、重いけれども忘れてはならない歴史を私たちに教えてくれています。

 

 

参考文献

倉沢愛子『二十年目のインドネシア:日本とアジアの関係を考える』草思社、1994年。

早瀬晋三『戦争の記憶を歩く:東南アジアのいま』岩波書店、2007年。

—「植民者の戦争経験」倉沢愛子ほか編『岩波講座アジア太平洋戦争4 帝国の戦争経験』2006年。

レファレンス共同データベース、昭和12年(1937年)の、公務員の初任給 | レファレンス協同データベース (ndl.go.jp) 2023年4月28日アクセス。

 

 

 

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