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正木浩司「強制労働という歴史的事実から労働法制の存在意義を再確認する」

強制労働という歴史的事実から労働法制の存在意義を再確認する

 

                          正 木 浩 司

 

北海道開拓の秘められた事実「強制労働」

 

筆者の所属する研究機関では、2019年度より、北海道の近現代史を自治の観点から多角的に調査・研究するため、所内に研究会を設置し、専門の研究者などを講師に招いた学習会や、道内各地の史跡・博物館などの現地視察を続けている。

研究会の活動の一環として、2020年11月上旬、第2回現地視察を実施し、北海道の北東部、オホーツク地方の北見市や網走市、佐呂間町などをめぐった。近現代史について学ぶなら、ここは立ち寄るべきスポットが豊富にある地域だが、2泊3日の旅を通じて筆者の眼前に繰り返し現れたのは、いわゆる囚人労働やタコ部屋労働といった「強制労働」に関する史跡や施設展示情報であった。

強制労働とは何か。北見市立の「北網圏北見文化センター」内の博物館にある、「北海道開拓と強制労働」というテーマの展示に、その定義についての明解な説明があった。ここで「強制労働」として挙げられていた事例は以下の4つ。すなわち、アイヌ人強制労働、囚人労働、タコ部屋労働、外国人強制労働。いずれも労働者を人権無視の過酷な生活・労働環境に置き、「使い捨ての労働力」として働かせることであり、作業で斃れた者は道端などに埋葬されたという。

オホーツク地方に強制労働に関する史跡や資料展示が相当数現存するのは、この地域では、囚人労働およびタコ部屋労働が行われたことが、地元の運動が奏功するなどして、歴史的事実としてある程度明らかになっているからである。

現在は国道39号線などとして整備されている、旭川-網走間の幹線道路は、かつて「中央道路」と呼ばれ、北海道開拓が本格化した明治時代に、入植や開拓、移動や物流に不可欠なインフラとして整備された道路である。北見地域の開拓で大きな推進主体となったのは、一つは民間の移民団、もう一つは屯田兵である。両者は同じ1897(明治30)年に、当時は野付牛と呼ばれた北見の地に入植するが、これに先行して、内陸部にある北見地域への入植を円滑にするために、長大な距離(約163km)をわずか7カ月間(1891年5月~11月)という短期間に急ピッチで開削されたのが中央道路であり、この開削作業を担ったのは、釧路集治監(標茶町)から移送されてきた1200人の囚徒たちであった。彼ら囚徒の移送先である「釧路監獄網走囚徒外役所」が現在の網走刑務所の起点に他ならない。

また、観光施設として高い知名度を誇る「博物館網走監獄」は、網走刑務所の旧建造物を移築ないし再現したテーマパークであるが、施設内の展示情報の多くは中央道路開削工事で行われた囚人労働の過酷な実態を後世に伝える内容である。

鎖塚の区域

さらに、北見市端野町緋牛内(ひうしない)地区にある「鎖塚の区域」は、囚人労働の犠牲者が埋葬された塚=「土饅頭」を保存し、囚人労働の犠牲者を慰霊する碑などを置く市の指定文化財(1992年指定、指定時は合併前の端野町の文化財)である。この「鎖塚」とは、逃亡防止のために囚徒が装着させられていた鎖が埋葬場所の土饅頭から出てくるため、いつしかそう呼ばれるようになった通称である。この件の詳細は、小池喜孝著『鎖塚』を読まれたい。

常紋トンネル工事殉難者追悼碑

囚人労働は明治20年代に廃止されたが、その後を継ぐかのように行われるようになったのがタコ部屋労働である。こちらの労働者は囚人ではなく募集人夫である。彼ら募集人夫は、甘言による勧誘・前借、隔離・拘禁状態に置かれ、過酷な生活・労働を強いられた。現在の遠軽町生田原と北見市留辺蘂の境に位置する石北本線・常紋トンネルの開削工事(1912~14年)では、このタコ部屋労働が行われたとされる。1970(昭和45)年にトンネル内の補修工事で壁裏から人骨が発見されてから、地元の旧留辺蘂町では遺骨発掘・供養の取り組みが本格化し、追悼碑や殉難者之墓の建立(1980年)に結実している。なお、強制労働の犠牲者の遺骨の発掘・供養が行われていない地域は他にもまだあるとされる。

 

労働法制は何を封じているのか、絶えざる検証が必要

 

憲法や法律などの法は、その制定あるいは条文の改正によって、社会に新たなルールを打ち立てる。その際、場合によっては、新ルールの設定という積極的な側面の裏で、もう一つの機能を持たされることがある。それはすなわち、旧来の悪法・悪習を断ち切ることである。後者も法のもつ非常に重要な機能である。そして、日本社会に現在ある労働関係の諸法制は、旧来の悪法・悪習を断ち切る側面を持つ最たるものと考える。

あらためて言うまでもなく、日本の現行の労働法制の根本には、「日本国憲法」第27条・第28条で謳われる勤労権や労働基本権(団結権、団体行動権、団体交渉権)の保障がある。同条は、様々な理念を謳う憲法の中で、第3章(国民の権利及び義務)に含まれる。「基本的人権の尊重」を三大原理の一つとする「日本国憲法」の中で、勤労権や労働基本権は、尊重されるべき基本的人権の態様として明記・保障されている。

また、世界史上、基本的人権の概念は、自由権と参政権から始まり、その後、平等権、社会権を追加するかたちで発展してきた。上記の勤労権や労働基本権は、このうちの社会権に属する。憲法学における社会権の定義は以下のとおり。すなわち、「とくに第二次世界大戦後、(中略)資本主義の高度化に伴って生じた失業、貧困、労働条件の悪化などの弊害から社会的・経済的な弱者を守るために国家権力の積極的な施策ないし給付を求めることのできる権利を(基本的人権に)含むようになった」(芦部信喜著『憲法学(Ⅱ)人権総論』19~20ページより引用)。

「日本国憲法」は、「基本的人権の尊重」の観点から勤労権・労働基本権の保障を謳い、これに基づいて「労働基準法」や「労働組合法」といった諸法が制定され、資本主義の経済体制をとる日本国内のワークルールは規律されている。そして、これら諸法の制定・運用により、「日本国憲法」の謳う理念に沿うワークルールが確立されるとともに、かつて労働分野で行われた悪習・悪法は封じられる。『女工哀史』(細井和喜蔵著、1925年)や『ああ野麦峠』(山本茂実著、1968年)などが伝える、紡績工場で働く女性労働者たちの過酷な生活・労働実態と同様に、北海道開拓の歴史の中でかつて行われた囚人労働やタコ部屋労働のような強制労働は、現行のワークルールのもとでは決して許容されない働き方/働かせ方である。言うまでもなく、それは「基本的人権の尊重」という憲法理念とは全く相容れないからである。

だから、「日本国憲法」が制定される前は強制労働が行われるような酷い時代だったけれど、それははるか昔の話で、憲法制定後の今は、しっかりとした労働法制によって人権無視の労働問題はすべて取り除かれているから安心だ、と言いたいところなのだが、現状からは決してそうは言い切れないというのが切ないところである。

例えば、近年、経済のグローバリゼーションや、これに伴う新自由主義経済の広がりなどを背景に、急速に広がりを見せる非正規労働。いわゆる非正規労働者の働き方には、正規の労働者との間に賃金・労働条件や社会保障制度適用上の「差別」が放置されるほか、低所得や社会保障制度の不適用などによってもたらされる「貧困」状態へのケアも全く十分とは言えない状況が見られる。差別の容認も貧困の放置も人権の侵害である。

一方、正規の労働者も安心ではなく、能力主義や効率重視などを背景として、いわゆる名ばかり管理職への登用による労働基本権の剥奪や、働き過ぎによる心身のバランスの喪失、過労死・過労自殺の問題なども深刻化し、いかにこれに歯止めをかけるかの議論と実践が急がれている。正規の労働者をめぐるこれらの問題状況にも人権侵害の様相が見て取れる。

「日本国憲法」とその理念に連なる労働法制によって、かつて労働分野で見られた人権無視の働き方/働かせ方は断ち切られたはずだが、その息の根は止まっておらず、社会や経済の成り行きによっては、容易に息を吹き返す。「日本国憲法」は「基本的人権の尊重」の理念からかけ離れた働き方/働かせ方を許容していない。憲法理念と矛盾しない労働のあり方を日本社会において維持していくためには、人権感覚を備えた視点からの労働法制の整備・改定と、全ての職場の労働実態に対する絶えざる検証の実践が不可欠である。

 

まさき こうじ公益社団法人北海道地方自治研究所研究員>

 

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